主日礼拝メッセージ                                                                                          2019年11月10日 

永遠に生きる
ヨハネの黙示録 21 章3 - 5 節
山岸 明牧師
        
      
人間はいつか「死」を迎えます。死にたくないのに死ななければないことが多 く、死は納得のいかない事としてやってきます。分っていてもどうする事もできません。できることは「死」を考えないようにすることぐらいです。それほど 「死」は人間を恐怖と悲しみに落としいれるのです。たとえ、この世のすべてを手に入れたとしても最後には死が勝利するのです。

しかし、パウロはその「死」に対して「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリ ント一15:55)と叫んた。パウロはどうして、人間では絶対に打ち勝つことの出来ない「死」に対して「死は勝利に飲み込まれた。」「お前の勝利はどこに あるのか」と言えたのか?それは、イエス・キリストが死からよみがえったとの信仰に立ったからです。「イエスは言われた。わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」(ヨハネ10:25−26)。パウロはキリストの復 活を信じる信仰によって、死のかなたにもう一つの永遠の世界を見たのです。

たとえ、この世で答えを得なくても、死を超えた向こうですべてを引き受けてくださるお方がおいでになる。この肉体は朽ちても、私の魂をしっかり と受け止めてくださる方がおられる。そこには主が共にいて「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも労苦もな い。」(ヨハネ黙示録21:4)。

死は終わりではなく、死を越えて永遠の命があるのだと言うのです。そして、神の願いは、今、生きているときに、私の罪の救いのために十字架につ いて復活してくださったイエス・キリストを信じること、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。と仰せら れるように「永遠の命」を受け取ることが神の御心なのです。


 
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