主日礼拝メッセージ                                                                           2020年1月19日 

それでも神を信じる

 詩編116編9−11節(旧約 p 956)

山岸 明牧師


     神は私たちといつも共にいて下さるお方です。しかし、苦難が続くと神が「共に」ではなく、遥か遠くに感じられてしまいます。ヘンリ・ナウエン(カトリックの司祭)はそれを「神の不在の訓練」と言った。

 神が遠くに感じられるとき、私たちはどうしたら良いのでしょうか。
1 素直にその気持ちを神にぶつける。 なぜ神はこんな困難を私に与えるのかと思っている時に『神様、全てのことに感謝します』と心から思えるだろうか?思えない事を口に出すのは偽りであり、神 がもっとも嫌う事です。だから、神に不満があるときは、素直にその気持ちを神にぶつけてもよいのです。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨 てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(詩篇22:2)

2 神がどのようなお方なのか、そこに焦点を合わせる。ヨブは人生が崩れ去ったとき、神は沈黙しておられた。それでもヨブは神をほめたたえる理由を見出していった。
・神は善いお方であって、愛に満ちたお方である。
・神は全能のお方である。
・神はわたしの歩む道を何もかも知っておられる。
・神はすべてを支配しておられる。
・神はわたしの人生に計画をもっておられる。
・神はわたしを救ってくださる。

3 神の約束を信じる。神に見捨てられたと感じる事があっても、その感情に左右されずに神を信じ続けること。「わたしは信じる、激しい苦しみに襲われている」と言う時も、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」(116:10)

4 神がしてくださった事を思い出す。主イエスが私のために「十字架」で命をささげてくださったこと。主イエスが鞭打たれ、ののしられ、いばらの冠をかぶせら れ、軽蔑され、唾をかけられ、あざけられ、動物以下の扱いを受けたこと。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしのために罪となさいました。わたしたち はその方によって神の義を得ることができたのです。」(コリント㈡5:21)


 
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