ソロモンが父ダビデの後を継いでイスラエル王国の王様になったとき、神はソロモンに現れて言われた。「何事でも願うがよい、あなたに与えよう」(7)。ソロモンが神に願い求めたのは、お金でも、名誉でも、力でも、長寿でも、健康でもなく「知恵と知識」だった。
知識は学ぶことによって得る事が出来る頭の問題であり、知恵とは善と悪をしっかりと判断でき、聞き分け、見分ける事ができる心(信仰)の問題です。「神を畏れることは知恵の初め」(詩編111:10)なのです。つまり、私たちが得た知識をどの様に用いるかが知恵なのです。
例えば、聖書を学ぶ事によって、私たちは多くの知識を得る事ができます。神について、イエス・キリストについて、救いについて、たくさん学べます。しか
し、聖書に書いてある事を知識として知る事と、真理を知る事は別です。「いつも学んでいなさいながら、決して真理の認識に達することができません。」(テ
モテ㈡3:7)とある通りです。
またパウロは、知識は人を高ぶらせるが、知恵は人を謙虚にさせ、愛を作り上げると言った。知識は気をつけないと人を高慢にし、結果的に人を傷つけ、つま
ずかせてしまいます。知恵は、他人を支え、助ける愛となるのです。このように知識と知恵は別のものであり、知恵は知識にまさるのです。故にソロモンは「わ
たしは知恵あるものになりたい」(コヘレト7:23)と言った。ソロモンは知恵と知識を求めましたが、より大切なものは知恵である事を知っていたのです。
初代教会が難しい課題に直面したとき、使徒たちは七人を選んで、その課題に取り組んだ。今でいう執事です。彼らに求められたことは「それで、兄弟たち、あ
なたがたの中から霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう」(使徒6:3)。本日、礼拝後に執事任命式があります。選ば
れた執事たちはこれからも知恵を求めて行きたい。「あなた方の中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に
願いなさい。そうすれば与えられます。」(ヤコブ1:5)。