主日礼拝メッセージ                                                                                                                     2020年8月30日 

 「求めなければ分からない」

マタイによる福音書20章20-28節
「人の子が、つかえられるためではなく仕えるために、
また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」


山岸 明牧師

 ヨハネとヤコブ、その母親が主イエスのところに来て、ひれ伏し、あることを求めた。それは主イエスが「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」という願いだった。

当時、彼らが待ち望んでいた救い主とは、ユダヤを権力と力で支配していたローマ帝国を打ち倒し、ユダヤを解放してくださるお方、まさに主イエスがそれを成 し遂げてくださるお方だと信じていた。故にローマ帝国を打ち破った後、主イエスが王となり国を再興するときにヤコブとヨハネを主イエスの右と左、つまり権 力の中心の座に着かせてほしいと願い求めたのです。他の弟子たちはこれを聞いて「二人の兄弟のことで腹を立てた」(24)とある。他の弟子たちも彼らと同 じ思いだった。

彼らの願い求めに対し、主イエスは「あなた方は、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」と 聞くと「できます」と答えた。主イエスの語られる杯とは十字架のことであり、できることならば避けたい、逃げたい杯なのです。一方、彼らの思う杯は、国が 解放されたときの勝利の杯、祝杯です。

主イエスは仰せられた。「この世は支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あな たがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。なぜなら主イエスご自身も「人の子が、仕えられる ためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(26−28)

弟子たちはこの後、十字架の杯を飲み、バプテスマを受け、新しい生き方を手にします。それは仕えるという新しい生き方、それが神の国の生き方なのです。同じようにクリスチャンは神の国を生きる者とした、神の国のルールに従い、仕える者として人生を歩んでいくのです。
 

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