主イエスはサマリアの女性に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊
と真理をもって礼拝しなければならない」(24)と仰せられた。当時の礼拝は外面的な形式や儀式にとらわれ、型通りに行えば、神様を礼拝していると思い込
んでいた。霊と真理をもって礼拝するとは、心から献げる礼拝です。私たちは心から礼拝しているでしょうか。毎週の礼拝がいつの間にか儀礼的や形式主義に
陥っていないでしょうか。また、日々の生活においても神様を崇め、神を第一としているでしょうか。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献
げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)と言われた。
さて、私たちは常に外側からのもので心を満たそうとします。サマリアの女性は渇いた心を男性という異性に求めました。それはアル
コールであっても、ギャンブルであっても、薬物であっても、物や名声であっても同じ事です。外側からのものでは、私たちの心は満たされないのです。主イエ
スは「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠に至る水が
湧き出る」(4:13−14)と仰せられた。この御言葉を聞いた女性は、罪深い自分を主イエスの前に献げて、渇く事のない水をわたしにくださいと求めた。
すると女性は内側から湧き上がるものに導かれて「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。さあ、見に来てください」(28)。この方
が救い主かも知れない。今まで何をやっても満たされなかったのに、私の探していたものが、求めていたものがここにあった。女性は今、内なる満たしによって
行動しているのです。主イエスに出会うとはこういう事ではないでしょうか。
主イエスは仰された。「何を食べようか、何を飲もうかと、何を着ようかと思い悩むな。これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知であ
る。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:31−33)。この神の約束をコロナ禍の
生活の中で是非、体験してみてください。