「嘆きに応えて下さる神」
山岸 明牧師
詩編13編2-6節
「あなたの慈しみに依り頼みます。
わたしの心は御救いに喜び踊り/主に向かって歌います
『主はわたしに報いてくださった』と。」
「いつまで、わたしの魂は思い煩い、日々の嘆きが心を去らないのですか。」(13:3)。ダビデはサウル王の嫉妬から命を狙われ逃亡生活をしていた。ダビデは先が見えない不安の中で神に祈り続けるが、状況はまったく変わらない。ダビデは祈りながらも、神はわたしを忘れてしまったのではないかとさえ思うようになってしまった。
ある日、ダビデが洞窟の中に身をひそめていたとき、預言者ガトが現れダビデに言った。「要害にとどまらず、ユダの地に出て行きなさい。」(サムエル上22:5)。
ユダの地は神がダビデに油注がれた地であった。しかし、そこはサウル王の支配するところ、そこに出て行ったら見つかり殺されてしまうかも知れない。ダビデ
は悩んだが、ユダの地に戻ることを決断した。このとき、ダビデは、これからは自分で逃げ場を探すのではなく、神を自分の逃げ場として行く決断でもあった。
私たちも信仰の歩みも、不安や悩み、思い煩いで心を痛めることもあります。神に祈っても状況は何も変わらない。だったら信仰など意味がない、教会に行って
も行かなくても同じだと思い、神から、また教会から離れて行ってしまうことがある。しかし、神が預言者を通してダビデにユダに帰れと言われたように、今
日、私たちにも主イエスのもとに戻れ、そこに平和の約束があるから、信仰の中に踏みとどまりなさい、と仰せられているのです。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(ペトロ5:7)と言われているように「思い煩い」は主の御手に預けて、私の手の中には置かないこと。委ねる先があると言う事は、これから先、不安があっても力強く生きる事が出来るのです。しかし、委ねる事ができなければ、これから先も思い煩いが私たちの手元に残るのです。ダビデはこのあと「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び踊り、主に向かって歌います。主はわたしに報いてくださった。」ダビデの祈りが聞かれたのです。感謝