【2008元旦礼拝メッセージの要約】 2008年1月1日
「イエスだけが」
「六日の後」(2節)と記されています。関連するを参考にして読みますと、これは「仮庵の祭り」の6日後ということが分かります(マタイやルカによる福音書、またヨハネによる福音書7:37)。もしそうなら、時期は11月で、新年です。もう一つ、ペトロはこのイエスとモーセとエリヤの三人を見て、「仮小屋を三つ建てましょう」といっていますが、このことからも仮庵の祭りの習慣と符合します。いわば、主イエスは弟子たちと、この高い山で静かに新年を過ごしたかったのです。そして、そこで御自分が何者であるかを示しておきたかったのです。
あの高い山の上で弟子たちが見た主イエス・キリストは、雪のように白く輝く衣で、エリヤとモーセとの会見に臨んでおられました。話のテーマは、栄光の主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9:31)でした。十字架が三人の話題の中心であったというのです。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表する者です。聖書がわたしたちに伝えようとしているメッセージは、「聖書全体は、世の光として十字架に輝き、世の渇きを潤すために、その腹からいける命の水を流れ注いでくださるイエス・キリストである。」ということです。キリストに出会わずして聖書を読んだとは言えないという意味です。そこで、父なる神は仰せになりました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。
これらの箇所からわたし達の主イエスがどういうお方であるかをはっきりと知ることができます。世の多くの人が新年に清々しい気持ちで初日の出を拝んでいますが、わたしたちは聖霊によって更に清々しくされて、2008年のこの朝、この暗闇にくっきりと立ち昇ってくださった真の初日の出である主イエスにのみ聴き、このお方をこそ仰ぎ見、「わが神、わが主」と拝むべきです。
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「イエスだけが」
皆さま、明けましておめでとうございます。2008年になりました。今年は皆さまにとってどのような一年になるでしょうか。どうか、体も心も霊的にも健康で、祝福された365日を過ごされますようにと祈らせていただきます。
さて、2007年12月31日が終りを告げるのをカウントダウンして新年を迎えられた人たちは、次にどこか、景色の良いところに出かけて、初日の出を見に行かれた方もおられることでしょう。まさかキリスト者である皆さまが、拝みに行ったということはないと信じます。
2006年11月の子ども祝福礼拝の中でお話したことですが、イスラエルにも正月というものがあり、結構盛大にお祝いするそうです。出エジプト記12:2を見ると、「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。」とあります。イスラエル正月はいつかと申しますと、11月です。この月はヘブル語で「ローシュ・ハシャナ」といいます。「新年」という意味です。イスラエルでも新年を迎える数日前の年末には知人や親戚に、「新しい年も神の祝福があるように。」と祈りを込めてカードを書き送ります。キリスト教会のクリスマスカードや日本で言う年賀状を出す習慣のようなものです。
こうして正月を迎えると、その元日にユダヤの人々は、会堂に集められて律法の朗読と解説を聴きます。わたし達がいうところの元旦礼拝です。礼拝が終わると夕方、川や湖や海辺に行き、「主は再び我らを憐れみ われらの咎(とが)を抑(おさ)え すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」(ミカ書7:19)という御言葉に従って、罪の告白を意味するタシュリーフという祈りをささげます。そして、お互いに「シャナ・トバ(良いお年を)」と挨拶を交わして家路に着き、それから家族で祝うのです。
また、正月の15日目から「仮庵祭(かりいおさい)」というお祝いをします(ネヘミヤ記8:13−18)。昔、モーセに率いられたイスラエルの民が、奴隷の地エジプトから解放されて、先祖の故郷であるカナンの地を目指して荒野を旅していた40年の間、夜はテントを張って眠りにつき、昼はテントをたたんで持ち運びながら、荒野の道を歩んだ苦難を偲び、イスラエルの人々はこの日、それぞれ仮の住いを作り、祭りの間そこで寝起きしながら、大人も子ども会堂に集まって礼拝をささげます。これは今日まで継承されています。
マルコによる福音書9章に、「六日の後」と記されています。いつから数えて6日後なのでしょうか。これは、関連するマタイやルカによる福音書、またヨハネによる福音書7:37を参考にして読みますと、これは「仮庵の祭り」の6日後ということが分かります。もしそうなら、時期は11月で、新年です。もう一つ、ペトロはこのイエスとモーセとエリヤの三人を見て、「仮小屋を三つ建てましょう」といっていますが、このことからも仮庵の祭りの習慣と符合します。いわば、主イエスは弟子たちと、この高い山で静かに新年を過ごしたかったのです。そして、そこで御自分が何者であるかを示しておきたかったのです。
静岡県に、わたし達日本バプテスト連盟の事業体の一つである「天城山荘」という研修会場があります。その会場入り口に、昔はチョロチョロと湧き出ている水がありました。全国から集まってくる人の中には、当時20−25時間もかけてたどり着く人が少なくありませんでした。彼らにとっては、その湧き出る冷たい水のおかげで何とも言えない安らぎを得たものです。けれどもその湧き出る水の上に小さな文字で、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13−14)という聖書の言葉が書かれていました。「この水を飲んで何も持たずに引き返すのではなく、山荘に入って、主イエスから豊かな霊の水を受けて帰りなさい。」というメッセージです。確かにこの御言は真理です。山荘の入り口に湧き出ていた水はそのうちにいつの間にか止まってしまっています。
ヨハネによる福音書7:37を見ると、新年の祭りが最も盛大に祝われる終りの日に、主イエスはわざわざ立ち上がって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。また8:12をご覧ください。主イエスは再び言われました、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と宣言しておられます。
あの高い山の上で弟子たちが見た主イエス・キリストは、雪のように白く輝く衣で、エリヤとモーセとの会見に臨んでおられました。話のテーマは、栄光の主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9:31)でした。十字架が三人の話題の中心であったというのです。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表する者です。聖書がわたしたちに伝えようとしているメッセージは、「聖書全体は、世の光として十字架に輝き、世の渇きを潤すために、その腹からいける命の水を流れ注いでくださるイエス・キリストである。」ということです。キリストに出会わずして聖書を読んだとは言えないという意味です。そこで、父なる神は仰せになりました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。
これらの箇所からわたし達の主イエスがどういうお方であるかをはっきりと知ることができます。世の多くの人が新年に清々しい気持ちで初日の出を拝んでいますが、わたしたちは聖霊によって更に清々しくされて、2008年のこの朝、この暗闇にくっきりと立ち昇ってくださった真の初日の出である主イエスにのみ聴き、このお方をこそ仰ぎ見、「わが神、わが主」と拝むべきです。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
新しい年が始まりました。過ぎ去った一年を振り返るとき、ただあなたの恵み溢れる一年でした。心から感謝します。今、新しい年を迎えましたわたし達ですが、多くの人々は早くもあなたを顧みることなく、人間の手で作った神々に手を合わせ、まことの主であるあなたが造られた太陽に向かって頭を垂れるなど、偶像礼拝をもって一年を始めようとしています。
しかし、あなたは今朝、主イエス・キリストを指し示しながら、わたしたちにお命じになります。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。憐れみ深い天のお父さま、どうぞこの一年、この愛する仙川キリスト教会から、誰一人この清い信仰の交わりから脱落するものがありませんように。主イエスのみを仰ぎ見、御前にひれ伏すものとならせてください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをお献げします。 アーメン。