2001年1月7日
主日礼拝メッセージ
赦される罪、赦されない罪

マタイ12:22〜32

       メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】  

 「」マタイ12:22〜32神の御前には赦される罪と赦されない罪があります。赦される罪とは具体的には聖書もイエス・キリストの父なる神がおられることも知らずに犯す罪です。今日の聖書の話で言えば、悪霊に口と耳がふさがれて、神の御言葉を聞くことが出来ない人、従って万物の創造主を讃美することを知らないでいる人です。イエス・キリストはこのような人を悪霊の束縛から解放して下さいました。多くの人々はこの事を共に喜び、この方こそ救主キリストではないかと語り合いました。

 しかし素直に喜ばない人々もその集団の中にいました。それはファリサイ派というグループに所属する厳格なユダヤ教の一派です。彼らはイエスこそ悪魔の領袖(りょうしゅう)、悪魔そのものではないかと揶揄(やゆ)しました。彼らは自ら聖書を熱心に読むだけではなく、それを人々に解き明かす指導者です。ではどうしてイエスを悪魔と決めつけてしまったのでしょう。その理由は彼らの誤ったエリート意識にあります。学歴も学位も持たないイエスの業など、山師のような者で信用ならない。おおよそ悪魔的行為だというのです。しかしイエスは言われます。「国でも町でも家の中でも内輪もめしては成り立たないで滅びてしまう。人を悪魔の支配から解放する業は聖霊なる神の業であって、悪魔には出来ない。それを否定することは何にもまして赦されない罪である」と。

 今日の聖書は私たちクリスチャンに与えられた神の厳粛なる警告です。私たちも気を付けないと悪魔の誘惑に陥って自己本位の神観、教会観に拘る余り、聖霊を汚す者、それこそ赦されない罪です。悔い改めて神の御前に立ち帰りましょう。


【主日礼拝メッセージ】                     2000. 1. 7

赦される罪、赦されない罪

 

 今朝は罪について、特に神の御前に赦される罪と赦されない罪があることを学びましょう。マルコ3:20によると、主イエスはこの時ご自分の家に帰られたばかりでした。食事を摂る為であったかも知れません。その時人々が悪霊に取り憑かれて目が見えず、口の利けない人を連れてきました。イエスは彼を愛して悪霊を追い出して上げました。この素晴らしい神の御業を目撃した人々は素朴な驚きと共に「この方こそダビデの子ではないか」と言いました。ダビデの子とは、キリストのことです。しかし他の人々が示した反応は必ずしも好意的ではありません。救いを求める人々の為に食事もしないで働くイエスを見て、身内の人々でさえ「イエスは気が狂った」と思い違いしました。ファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せない」と批評します。イエスを悪霊の頭「ベルゼブル」だと言うのです。ベルゼブルとは悪魔の別名です。「この人が悪霊から解放されたからと言って喜ぶのはまだ早い。もしかしたらベルゼブルであるこのイエスが悪霊に代わって支配し、この人をもっと不幸にするに違いない」と言うのです。

 

 そこでイエスは教えて言われます。内輪もめをしている家や町、国は成り立ちません。もしイエスがベルゼブルであるとすれば、彼は多くの悪霊を用いて多くの人の心を支配出来るわけですから、悪霊を追い出す必要などありません。そのまま人の心を縛り続けておけばよいのです。サタン(神に敵対する者という意味です)の国とはサタンの支配する領域のことです。サタンは自分の国を拡大する為に八方に悪霊を遣わして人間をその支配の下に置きます。ですからサタンは悪霊と仲間割れなどしません。一体サタンはどのように人の心を支配するか考えてみましょう。敬虔な神の人にもサタンは容赦なく攻撃を仕掛けて、次から次へとその人の支えとなっているものを取り払って行きます。愛する家族や財産、そして健康な肉体をこれでもかといたぶって、肉体的にも精神的にも全くの孤独の極に追い込みます(ヨブ記1〜2章)。けれども時には反対の方法でクリスチャンの心を揺さぶります。

 

 聖書にアナニヤとサフィラの物語があります。夫婦共謀の上で、売った土地の代金を一部残しながら全部です、と教会に携えてきました。しかし、ペテロはその嘘を見抜いて「アナニヤ、何故あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、ごまかしたのか。売らないで置けばあなたのものだったし、また、売ってもその代金は自分の思い通りになったのではないか。どうしてこんな気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と叱責しましたが、事実この夫婦に神の裁きが下りました(使徒言行録5:1〜6)。彼らは何故こんな詰まらない嘘をついたのでしょうか。クリスチャンであっても人の褒め言葉を期待する自尊心をサタンに利用された結果なのです。その外にもサタンはクリスチャンの一番弱い部分を突いて誘惑の罠を仕掛けてきます。例えばお酒、たばこ、覚醒剤、性的誘惑で良心を麻痺させ、人としてのあるべき道を踏み外させるのです。サタンはいつも魅力的なものをちらつかせて、私に平伏すなら、これら一切のものをあなたに上げると偽りの約束をするのです。けれどもその終わりは滅びです。イエスはこのように神の御業とサタンの業を見分ける霊の目を持ちなさいとお教えになるのです。

 

 第二に、イエスはファリサイ派の人々のもっと危険な思い違いを指摘しておられます。それは何でしょうか。「ファリサイ」とは元々分離という意味です。彼らは日常生活において全ての点で、聖と俗の分離に神経を尖らしていました。これは清いのか、汚れているのかと一々判断しながら、汚れた物には決して触れないように、また関わりを持たないようにしています。しかしそれほど神経質になっているファリサイ派の人々が、今とても危険な分離をしようとしているのです。それは神と悪魔の見定めの違いです。彼らは聖めを求めながら、神に対して致命的な罪を犯しています。彼らはイエスを退けることによって神の御心に従っていると思い違いをしているのです。彼らはイエスを悪魔呼ばわりすることによって、実は悪魔を讃美し、神の御霊、聖霊を汚すと言う罪を犯しているのです。

 

 神を知らない人が神を冒涜しても神は赦しの道を残して下さいます。イエス・キリストの十字架がその道です。聖書も教会も知らない人がイエス・キリストを拒み、信じなくても神はなおも救いの道を閉ざしません。神はその人の心がいつの日か聖書と教会に導かれるまで待っておられるのです。しかし、クリスチャンでありながら聖霊に言い逆らう者には最早救いの道は残されていません。かつて聖書を通して十字架によって救いを確信した者であったのに、その後意識的にこの三位一体の神を冒涜して止まないのであれば、この世でも、来るべき世においても赦されることはないのです。

 「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(ヘブル6:4〜6)と聖書に書かれているとおりです。

 

 ではファリサイ派の人々の場合にはどうなのでしょうか。彼らは最早救われないのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。彼らがやがてイエス・キリストがどのようなお方であるかを知った時、私たちよりも真剣に悔い改めることでしょう。なぜなら彼らは私たち等足下にも及ばないほど聖書を真剣に読んでいるからです。ただこの時点で彼らはイエス・キリストを知らなかったのです。しかしこの後彼らは十字架につけられたイエス、復活されたイエス・キリストを伝え聞いて真剣に悔い改めるなら、彼らは救われるのです。今主イエスはファリサイ派の人々に厳しく語っておられますが、それは彼らを愛し、彼らに悔い改めのチャンスを与える為だたのです。では私たちの場合にはどうなのでしょうか。私たちには旧約聖書だけでなく、新約聖書が与えられているのです。ヘブライの信徒への手紙の記者が言うように、クリスチャンとなった今も以前の生活を懐かしんで神に忠実でないなら、滅びの道を自ら選び取るわけですから、私たちは来るべき世において裁かれなければなりません。なぜなら聖書は死に至るまで悔い改めようとしない者を指して「堕落した者」と言っているからです。しかし、もし今真剣に悔い改めるなら、そのような人にもまだ望みはあります。そのようなクリスチャンのために「主の晩餐」という恵みの席がまだ設けられているからです。どうか今、残された恵みの席にあなたも着いて下さい。神への畏れと感謝をもって。

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。今朝は赦される罪と赦されない罪のあることを学びました。私たちは自分ではあなたを信じているつもり、あなたに忠実であるつもりですが、あなたの目にはどのように映っているのでしょうか。今襟を正してあなたの御前に跪く私たちを憐れんで下さい。私たちこそ悪魔に捕らえられて、あなたを讃美する口も、あなたのみ教えを聴く耳も塞がれてしまっているかも知れません。どうか先ず私たちをあなたの御霊によって開放して下さい。今悔い改めの心をもってあなたの御前に平伏します。どうかあなたが設けて下さった主の食卓をあなたの赦しのみ徴でると信じて、これに与る者とならせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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