【主日礼拝メッセージ】                 2001年1月21日

清潔な心にも汚れた霊が

マタイによる福音書12:43〜45

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

 「汚れた霊」も何かの弾みに人から出て行くことがあります。例えばどうしようもなく悪い習慣に身を任せていた人、不道徳な遊びに夢中になっていた人が、道徳的な教訓に耳を傾けて、その生活から綺麗さっぱり身を引き、規則正しい生活をするようになったというケースの人です。汚れた霊にとってはなはだ住み心地の悪い住みかになってしまいました。仕方なくひとまずその人の心から出て行きました。所がどこに行っても汚れた霊にとって都合の良い休み場がないものですから「我が家に帰ろう」と元の心に戻ってみました。何とも都合の良いことに、心は綺麗に整ってはいましたが、まだ空き家のままです。しかし整えられた心に一人では入りにくいものですから、自分よりもっと悪い「七つの霊」を連れて入り込みました。「七つの霊」とは、完全数に匹敵する悪霊の数ですから、その人の心の状態は完璧に取り返しのつかない生き方へと落ちて行くという譬え話です。

 いくら道徳的に清潔な心になったつもりでも、汚れた霊にいつまでも「我が家」と呼ばせていることが問題です。人の心は哲学や倫理や道徳でどれほど綺麗になっても、そこに住むべき者が住まない限り、その人の心は依然として空き家なのです。哲学も道徳も倫理も決して悪いものではありません。しかしよく考えて下さい。哲学も道徳も倫理もそれ自体人格がありません。これらは人の心を綺麗にする掃除機のようなものです。人格なき掃除機がその家の主人になれるはずがありません。

 イエスは言われました。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と、あなたの心を清めることの出来る方はイエスさまだったのです。それではイエスさまこそ私たちの心の主人になるべき方なのです。今お迎えしましょう。

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【メッセージ本文】   清潔な心にも汚れた霊が

マタイによる福音書12:43〜45

 

 私の少年時代、近くに一軒の母子家庭がありました。多分早くに夫に先立たれ、流れながれて私たちの住む貧乏長屋に引っ越してこられたのでしょう。その人は私の母よりかなり若い人で、当時幼稚園くらいの娘さんが一人いました。周りの大人たちの話では霊媒師のような人だったそうです。色々な人が出入りしては、先祖の霊を呼んでもらったとか、子どもに憑依していた霊を追い出して貰ったとか評判だったのを記憶しています。

 イエスの時代にもそのようなことを生業(なりわい)にしている人がいたのでしょうか。ユダヤ人の間では偶像礼拝につながるこのようなことは一切律法によって禁じられていましたから、多分異邦人の間で行われていたのでしょう。しかしユダヤ人は聖書によって「悪霊」の存在は信じていましたし、時に悪霊を追い出すというようなことをまやかしで行う偽預言者もいたという聖書の記録もあります。そのようなことが非常に危険であると教える為にイエスはこのような譬え話をなさったのでしょう。

 第一の問題は悪霊を追い出すと言うことについてです。これについて学ぶために、今一度この章の38節まで遡らなければなりません。ファリサイ派の人々は「あなたが悪霊を追い出すことの出きる者だという証拠を見せなさい」とイエスさまに迫りました。

 怪しげな宗教団体が悪霊を追い出すと言っては、専門医にお任せすれば治るはずの病人を死に至らしめた事件は枚挙にいとまがありません。事実キリスト教の世界でも中世ヨーロッパの時代に魔女狩りという恐怖時代がありました。カトリック教会が教会の権威で、根拠もなく女性を縛り上げて処刑した暗黒の歴史は多くの人に記憶されていることでしょう。またこれは余り一般に知られていない事件ですが、バプテスト教会も一時期、悪霊払いの犠牲になったこともありました。今日でもあたかも自分が完全な者になったかのように錯覚して、クリスチャン仲間を「あの人は霊的でない」と審く人がいます。また聖霊の働きを一面的に捉えて、或いはカリスマに憧れる余り(カリスマとは、直訳的には「賜物」という意味のギリシャ語ですが「超自然的な力」と誤解されて、そのような力を持つ指導者に憧れることです)、通常の礼拝では飽き足らず、恍惚状態で祈り、讃美することが霊的な礼拝であるかのように錯覚する人がいます。このように聖書から外れた方法で霊的現象を求めることは、真理から踏み迷う危険を生じるので注意が必要です。この延長が「しるしを見せて下さい」という言葉になっていくのです。

 

 第二に43節以後から、イエスはファリサイ派の人々がイエスを悪霊と見間違ったマタイ12:24の言葉を受けて、この譬え話から悪霊が確かに存在すること。そしてその悪霊から本当に自由でいるために何が必要であるかを教えて下さいました。

 「汚れた霊」も「悪霊」も同じと理解していただいて宜しいと思います。汚れた霊も何かのきっかけで人から出て行くことがあります。例えばどうしようもない悪い習慣に身を任せていた人、或いは不道徳な遊びに夢中になっていた人が道徳的な教訓に耳を傾けて、その生活から綺麗さっぱり身を引き、規則正しい生活をするようになったと言うようなケースの人です。汚れた霊にとっては今まで住み心地の良かったその人の心が、その日を境にはなはだ居心地の悪いものになりました。そこでその人から出て行きます。あちらこちらさまよったけれど休み場が見つかりません。それで出てきた「我が家」に戻ろうと言って戻って行くのです。所が懐かしの我が家は掃除が行き届き、何もかも整えられています。しかし幸いなことにまだ空き家です。しかし自分一人ではどうも落ち着かないので、自分よりもっと悪い七つの霊を引き連れて一緒に住み始めました。「七つの霊」とは、完全数に匹敵する悪霊の数ですから、その人の心の状態は完璧に取り返しのつかない生き方へと落ちて行くという意味です。

 

 いくら道徳的に清潔な心になったつもりでも、汚れた霊にいつまでもその人の心を「我が家」と呼ばせていることが問題です。人の心は倫理や道徳でどれほど清潔にしたつもりでも住むべき者が住まない限り、その人の心は依然として空き家なのです。住むべき者とは誰でしょう。それは汚れた霊とか悪霊と呼ばれる者ではありません。「聖き神の霊」であります。聖霊でなければなりません。ここでもう一度28節を読んでみましょう。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とイエスは言われました。哲学や道徳や倫理は決して悪いものではありません。いやむしろ人間の精神生活を高めるために大切なものです。これらのものは人の心から汚れた霊、悪い習慣、不道徳な生活を一掃する力さえあることは確かです。

 しかしよく考えて下さい。哲学も道徳も倫理も人格がありません。人格なきもので汚れた霊や悪霊を追い出したとしても、それは掃除機で家の中を綺麗にしただけのようなものです。人格なき掃除機がその家の主人になれるはずはありません。人格を持つ者にこそ人の心の主(あるじ)になって貰わなければなりません。イエスは言われました。「わたしが悪霊を追い出している」と。そうです。イエス・キリストが悪霊を追い出して下さったその日から私たちの心は神の支配する「神の国」となることが出来るのです。 

 イエス・キリストは私たちの心の汚れを清めて罪から解放するために、誰も出来ない方法で悪しき霊、汚れた霊を追い出して下さいました。それは十字架です。主イエスは私たちの汚れた罪のために命を捨てて、私たちを悪霊の支配から神の御許へと立ち帰らせて下さいました。この方に私たちの心を導いていただくことこそ一番安全で幸福な生涯を保証していただけるのです。それはこの世で終わる幸福ではなく、来るべき世においてまでも続くものだからです。今お迎えしようではありませんか。

 

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。私たちは私たちの心がこの世の様々な悪しきもののために汚れていることを認めないわけに行きません。これまで様々な方法や手段を通して心が清められるようにと努力を重ねてきました。一時的には綺麗になったように思いますが、長続きしません。それもそのはず私たちはこれまで人格なきもので取り敢えず心が清められたらそれでもう満足していたからです。心は相変わらず空っぽでした。だから汚れた霊にいつまでも私たちの心を「我が家」と言わせていたことに今気が付きました。

私たちの心の主人は彼らであっては成りません。イエスさま、あなたこそが私たちの心の王座を占めて下さらなければなりません。どうぞ、今私たちの心を明け渡しますから、あなたの十字架の血潮でもって徹底的に清めて下さい。私たちの救主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。

 


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