【主日礼拝メッセージ】                 2001年1月28日

「神の家族」

マタイ12:46-50

         メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                

 今日「家庭崩壊」が進む中で、私たちはイエス・キリストから「神の家族」という愛の絆を学ぶことが出来ます。キリスト教会でクリスチャン同士がお互いを「兄弟・姉妹」と呼び合うのは教会がその雛形だからです。母マリアや兄弟達が、ある家の前でイエスを呼ぼうと外に立っていました。親切な人がイエスに「母上やご兄弟が呼んでおられます」と伝えました。しかしイエスは「わたしの母とはだれか」と問い返します。何とつれない言葉でしょう。

 西洋美術にマリアとヨセフ、少年イエスの仲睦まじい光景が描かれた絵があります。題は「聖家族」また「聖母子」と付けられています。しかしこの聖書から、そう言う平和な光景を想像することはできません。むしろ長男として家の責任を疎かにし、狂ったように訳の分からないことに没頭しているイエスを非難するような眼差しを感じます。そこでイエスは肉親以上の関係、神を天の父と呼び、国籍も人種も文化も全てを超越した信仰による結びつきの中で心から兄弟姉妹と呼び合える世界のあることを教えます。それが「神の家族」の雛形である教会です。

 キリストにあってその絆は強く、愛に満ちています。神の御心を行うものであれば誰でもその一員です。神の御心とは何でしょう。命の根源である神を父と仰ぎ、御子イエスを救い主と信じ、従うことです。この至聖・至高の愛の交わりに一人でも多くの人が加えられるようにと、福音を世に告げ回ることです。

 「聖家族」はイエスと母マリアとヨセフという風景の中に限られてはいなかったのです。主に感謝!

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【メッセージ本文】      「神の家族」

                  マタイ12:46-50

  

 悲しいことですが、今日「家庭崩壊」が一層深刻になっています。特に幼児虐待が後を絶ちません。しかし幼児を虐待する親たちを一方的に責めることも出来ません。彼らももしかしたら幼い頃愛を知らずに育てられた犠牲者なのかも知れないのです。最も必要とする時期に親の愛情を十分に受けられないで育った子どもたちは、残念なことにその後の人生に暗い陰をさす確率が高いという統計があります。このように家庭がどんどん崩れて行く事実を私たちはどのように受けとめ、教会として何が出来るのでしょうか。

 キリスト教会ではクリスチャンがお互いを「兄弟・姉妹」と呼び合っています。「教会って、随分センチメンタルな呼び方をする所だな」と奇異に感じる人もあると思います。しかし教会には今日社会が見失っている大切な宝物があります。それは見えざる神を畏れる心と、この神を崇めながら互いに愛し合うという宝物です。キリスト教会こそ「神の家族」の雛形だからです。

 今司式者によって読んでいただいた聖書は母マリアと兄弟達が「イエスは気が狂ったのではないか」(マルコ3:21)という世間の噂を聞き、幾分それを信じて「彼を取り押さえに来た」と言う事情がその背景にあります。西洋美術に「聖家族」とか「聖母子」と言う題で、イエスと母マリア、マリアの夫ヨセフの仲睦まじい光景が描かれている絵があります。しかしこの聖書の箇所からは、そのような平和で麗しい光景を想像することは出来ません。むしろイエスと家族の緊張した状況が窺えます。マリアの夫ヨセフはすでにこの世を去って天に召されていたと思われます。ユダヤ社会の伝統的秩序によれば、父亡き後の家督は全て長男に譲られます。それはまた一家の大黒柱として全ての責任を負うことでもあります。

 しかし今家族の目には、一家の大黒柱と頼むイエスが家長としての責任を放棄し、訳の分からないことに没頭しているように見えるのです。このようにイエスは社会から、また家の人々から厳しい視線に曝されているのです。母マリアと兄弟達はイエスがその家の中にいることを知っていますが、中に入ろうとしません。親切な人がイエスに「あなたの母上とご兄弟方が呼んでおられます」と伝えました。しかしイエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と問い返しました。何とつれない言葉でしょう。イエスの家庭も崩壊寸前なのでしょうか。そうではありません。「弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」とのみ言葉に注意して下さい。

 イエスの言う家族とは血肉を超えたもの、神を父と呼び、お互いを兄弟姉妹とする関係にあるのです。肉の関係としての家族は、先ず霊的な神の家族の雛形である教会を通して清められてこそ、その意味があるのです。教会は決してセンチメンタルな交わりの場ではありません。教会は天の父なる神の御心を守り行う群れです。この「御心」には定冠詞が付せられていますから、天の父にとって唯一の思いです。それは「望み」とも「意志」とも訳せるものです。イエスは他の聖書の箇所で「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)と言われました。

 

 天の父の御心は、私たち全ての者がイエスをキリスト、救い主と信じて復活の命、永遠の命を得ることです。それは「行為」としての「行い」と言うよりも「信じ、従う」ことなのです。神の御心を行う者は誰でも神の家族の一員です。命の根源である神を天の父と仰ぎ、御子イエスを救い主と信じ従うことです。この至聖・至高の愛の交わりに一人でも多くの人が加えられるようにと、福音をこの世に告げ回ることこそ、神の最も大いなる御心なのです。もはや国籍も人種も文化も性別も年齢も階層、階級の全てを超越した交わりの関係造りです。これこそ天の父の御心であり、お互いを兄弟、姉妹、また母と呼び合う神の家族としての証なのです。 

 イエスは母マリアと兄弟達に対して決別の宣告をなさったのではありません。そうではなく、天の父を中心としたもっと清く、もっと深い関係としての「神の家族」として創造して下さったのです。

 

 今日崩壊しつつある家庭にも尚望みがあります。神に不可能はありません。どうか神の家族の雛形である教会に来て、血のつながりを越えた交わりのあることを知って下さい。あなたの子どもを自分一人で抱え込まないで、教会の交わりの中に委ねて下さい。マタニティ・ブルーに悩むお母さん、子育ての辛さ、苦しさを自分一人で抱え込まないで、教会の交わりの中に飛び込んできてみて下さい。イエス・キリストの父なる神はあなたの心を平安と希望と命豊かな恵みの世界へと導き、あなたの手に本当の家族の交わりを取り戻させて下さいます。「聖家族」はイエスと母マリアとヨセフという風景の中に限られてはいなかったのです。主に感謝します。

 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。教会はお互いを兄弟姉妹と呼び合う神の家族であると聞かされてきましたが、今日与えられた聖書からその意味を知ることが出来ました。主よ感謝します。それはこの世の人間的なしがらみから自由にされたもの、先ずあなたこそ真に命の根源であると認めたところから始まる家族でした。それはあなたの唯一の御心としての救いと復活の命に与ることであり、またその福音を世に伝えることでした。

 主よ、今私たちはあなたこそ永遠の命を持つ主、死から命を生み出す全能の神であることを信じます。私たちの残る生涯をこの福音の使者としてお用い下さい。私たちの救主イエス・キリストの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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