【主日礼拝メッセージ】 2001年2月11日
- メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
今日の譬え話は良い種と毒麦の物語です。畑の使用人はいつの間にか芽を出し、見る見る成長して行く毒麦を発見して不安になり、その事実を主人に報告すると共に「行って抜き集めておきましょうか」と指示を仰ぎます。しかし主人は「良い麦を一粒たりとも失わないように、刈り入れの日までそのままにしておきなさい」と命じました。
この世は毒麦のような人と良い麦のような人が混在しています。教会も例外ではありません。そこで何とか聖い交わりを取り戻したいと焦り、あたかも自分が神の代理人であるかのように、これと思う人を共同体から除き去ろうと一生懸命になります。しかし神さまは「刈り入れの日、刈り入れをする者全てわたしが決定し、指示する。それまで控えていなさい」とお命じになります。
聖書の神を一文字の漢字で言い表すと「赦す」偏に「待つ」と書くことが出来ると説明してくれた友人がいます。私たちは人を見てあれこれと審き、この世から除き去ろうととんでもない努力をしてしまいます。また自分で自分を審いて「私こそ有害な毒麦のような者だからこの世にいてはいけないのではないか」と早合点してしまう人がいます。どちらも間違っています。人を審く事が出来るのは神さまだけです。人をも自分をも審いてはなりません。植物の毒麦はいつまでも毒麦ですが、人間は変わることが出来るのです。いや変えて頂くことが出来ます。神には人を造り変える全能の力があるからです。神に頼り、清めていただきましょう。
悪魔はこの世界で最も勤勉な被造物です。良い種が播かれた良い土地に、夜間毒麦を播きました。夜も寝ないで種まきをするとは何という働き者でしょう。それを知った僕(しもべ)たちは「直ちに抜き集めましょうか」と指示を仰ぎますが、畑の主人は「刈り入れの日までそのままにしておけ」と待ったをかけます。ある友人が神さまを一文字で言い表す漢字を作るなら「赦す」偏に「待つ」と書くことが出来ると言いました。成る程今日の聖書テキストに相応しいと思います。心してこの譬えを学びましょう。
一、抜き去るタイミングを誤るな
「よい種」というのは恐らく小麦のことだと思います。大麦に比べて小麦は遙かに貴重な種籾だからです。農家の人に聞いた話ですが、米の稲を植えると、暫くしたらタイヌビエと言う素人目には殆ど見分けの付かない芽が生えてきます。日本の稲作は出来るだけ早く、そしてこまめにそれを抜く努力をしますが、ユダヤ地方では途中の除草作業はしないので、穂をつける前に毒麦が見つかった時にはかなり成長していたでしょう。ここに言う毒麦とは、確かに毒性の菌を持つ種子です。これを口に入れると激しい嘔吐や下痢を催すそうです。ですから「それは敵の仕業だ」と聞くと、僕たちは「すぐに抜いてしまいましょうか」と指示を仰いだわけです。
主イエスの譬で言う毒麦とは「不法を行う者」のことです。この譬え話と解説の間に「からし種」と「パン種」の二つの譬え話があることに注意しましょう。どちらも成長する種の力が話の中心です。この事と合わせて譬え話を読むと、マタイの時代の教会が成長する過程で障害となるものをどのように処理すべきかと頭を痛めていたことが窺えます。毒麦が芽を出し、花を咲かせ、穂を結んで行くように、不法を行う人々が教会の中にも入り込み、もの凄い勢いで増え、今や座視できない状況とさえなっています。緊急に対処しなければ大変なことになしかねません。「もし神の国が実際に来ているのなら、何故罪人とイスラエルの聖徒達が分離されないのか」と言う疑問は募る一方です(ハンター著「イエスの譬・その解釈」p.68)。
これは今日の教会の抱えている問題でもあります。清くありたい、より純粋な群れでありたい。教会は聖なるもので満ちている所でなければならないと、殆どの人がそう言う理想を描いていることでしょう。しかし現実は遙かに遠い教会の姿です。何とかしなければ教会は駄目になってしまいそうです。しかし畑の主人の言葉に見られるように「刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさい」と神は言われます。毒麦を取り除くにもタイミングがあると戒めておられるのです。
二、刈り入れの日まで待て
「毒麦を抜き去りましょうか」という僕たちの提案を、この主人は退けました。目的は正しくても、その手段とタイミング次第で正しい結果を出すとは限りません。毒麦を取り除くと言う正しい目的に向かいながら、教会の歴史はしばしば誤りを繰り返してきました。誰でも経験する事ですが、雑草だけを抜くことは難しいものです。抜いてはならない草花の根っこも一緒に抜いてしまいます。土の表面で見分けがついても土の下で根っこと根っこが絡まり合っているからです。
同じように毒麦のような人を取り除いているつもりが、一人の忠実な信徒を抜き去る危険があります。時に教会は神よりも宗教的に熱心になりすぎるのです。「ねばならない」と言う義務感が教会から愛の灯も赦しの光も消し去ってしまうことがあるのです。毒麦に支配されるかも知れない教会の現状を憂うことは大事です。しかしだからと言って、教会の聖化を追い求めることに熱心の余り、教会が審きに明け暮れる群れとなってはなりません。また反対に自分で自分を審き「こんな汚れた者、毒麦にも等しい私が聖なる教会にいてはいけない」と、自らを神の国の共同体から抜き取ってしまう人がいます。人をも自分をも先走って審いてはならないのです。教会は罪の悔い改めを促す場ではあっても、裁きの庭にしてはならないのです。麦の稲一本一本、稲穂一粒一粒に対する畑の主人の思いは父なる神の御心そのものなのです。神さまは一人ひとりを心に掛けて下さいます。
三、待ち続ける神
毒麦と思われるものを自分で抜き去ろうとする私たちに主は待ったをかけて「育つままにしておけ」と。この譬えは優れて終末論的です。私たちの神は「赦す」偏に「待つ」と書くことの出来る方なのです。確かに「神はいつまでこの悪い時代を放任しておられるのか」と思わないと言えば嘘になります。しかし次のみ言葉はその疑問に明確に答えてくれます。
「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやってきます。その日、天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし、わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」(ペトロ3:8〜13)」
刈り入れの日が遅いのは神の忍耐の賜物です。稲科の毒麦はいつまでも毒麦のままですが、人は毒麦のままでいることも出来るし、良い麦に変えて頂くこともできます。天の父は私たちを良い麦に造り変えることの出来る全能の主です。神がその独り子イエス・キリストを人の子としてこの世にお遣わしになったのは、実にその為でした。神は全ての人が心から悔い改めるのを最後の最後まで待っておられるのです。燃えさかる炉の中に投げ込まれてそこで泣きわめいたり、歯ぎしりをすることになる前に今と言う時、心から悔い改めましょう。悔い改めて主に立ち帰りましょう。
祈ります。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
私たち日本バプテスト連盟が作成し、また私たちの教会でも主の晩餐式毎に共に唱和しております「教会の約束」の中に「教会は人によって成ったものではなく、神によってなったものと信じます」という一節があります。確かに私たちはあなたの招きによって教会に導かれ、あなたの御救いに与ってあなたの僕の一人と加えられました。
それでも時々毒麦のような自我を出しては共同体の交わりを破壊したり、反対に自分が神の代理人でもあるかのように兄弟姉妹を裁いてはあなたを悲しませることの多い日々でした。あなたの憐れみと寛容なくして今に至ることが出来なかったことを痛感します。主よ、心からあなたの御名をほめ歌います。
主イエスの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。