【主日礼拝メッセージ】 2001年2月25日
- メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
主イエスは全ての人に最も大切な天国の秘密を譬によって教えて下さいました。しかしそれが本当に天国の秘密であったと言うことを悟る為にはもう少し先まで見聞きしなければなりません。そのもう少し先まで見聞きする熱心のあるなしが天国の秘密を悟るか悟れないかの分岐点だと主イエスは言われます。そしてイエスの周りで尚も語られた譬の意味を知りたいと願う弟子たちを「偉大な預言者や義人さえも見聞きできなかったことを今見聞きすることが許されている故に幸いな者」と祝福されました。
ある意味でこの世の様々な出来事は、全て神さまが私たちにご自身のご計画を知らせる譬え話のようなものなのかも知れません。マタイ13章の譬え話集は浮世離れした作り話ではなく、現実に即した題材から語られています。苦悩と疑問に満ちた世の中で様々な経験をしながら、それでも失望落胆することなく毎週の日曜日礼拝に来て、語られるメッセ−ジに祈りの姿勢で耳を傾ける人にはこの世の出来事が何を意味しているのかが見え、天の国の秘密、人生の謎が一つ一つ明らかにされて行くことでしょう。
幸いなのはその道で主イエス・キリストに出会うことが出来る人です。「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(口語訳箴言3:6)
マタイによる福音書13:10〜17,34-35
主イエスは全ての人に最も大切な天国の秘密を譬によって教えて下さいました。35節の「 」は詩編78:2からの引用で、先見者アサフ(歴代誌下29:30)の預言によるものです。しかしそれが本当に天国の秘密であったと言うことを悟る為にはもう少し先まで見聞きしなければなりません。そのもう少し先まで見聞きする熱心のあるなしが天国の秘密を悟るか悟れないかの分岐点だと主イエスは言われます。また「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」とも言われました。偉大な旧約時代の預言者たちでさえ見ることも聞くことも許されなかったこと、即ち天の国の秘密をこの弟子たちは今見て聴くことが出来るとは何という特権でしょう。
ここで「あなたがた」と呼ばれている「弟子たち」とは12弟子を指すのか、それとももう少し広い範囲の72人を指すのか分かりません。マルコ4:10を見ると、「12人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」とあります。種まきの話を聞いた人々は数え切れないほどでしたから、著者はやむを得ず群衆という大雑把な呼び方をしました。その群衆と呼ばれている人々の殆どはたとえ話が終わるや家路につきました。多分その意味する処を深くは知らずに帰って行ったことと思います。しかし12人とイエスの周りにいた人々は譬の意味を聞く熱心がありました。
主イエスは譬の意味を聞きたいと願う人々に「あなたがたには天の国の秘密を知ることが許されている」と言われました。秘密はミュステーリオンと言って、聖書によっては「奥義」とも訳されています。別の訳では「覆われているもの」とか、「隠されているもの」という聖書もあります。覆いを取るからディスカバー、発見なのです。彼らは何を発見しましたか。天国の秘密です。天国は死後行くところと思っていたのに、覆いをとればそこは天国という一大発見、それが譬の意味を探る醍醐味です。多くの人は聖書の話を一回聞いて、もうそれで終わりです。こういう人は天国を憧れはしますが、訪ねるという熱心を持っていないので、目の前にそのチャンスを与えられても結局はその権利を取り上げられてしまうのです。14〜15節の『 』の言葉は旧約聖書イザヤ6:9〜10の引用ですが、8節から読んでみたいと思います。
「そのとき、わたしは主のみ声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』 わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。』主は言われた。『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。』」。
これはイザヤという人が預言者として立つ決心を言い表したとき神はそれを大いに喜びながら、しかし「世の人の反応は大抵の場合鈍く冷たいもの、反抗的にさえなるであろう。しかしあなたはそれでも語り続けなければならない」と言われた部分の引用です。
イエスがこのイザヤの預言を引用して、弟子と呼ばれる人々と弟子でない人々とを区別しておられることは一見冷たい仕分けのように思えます。しかしこれを差別と誤解してはなりません。イエスが世の人々を区別なさるのは、世の人々がイエスの教えに対して熱心であるか否かに基づいている神の応答であって、決して差別ではありません。12人と一緒にイエスの周りにいた人たちのように「この譬えの意味は何ですか」と尚も問い続けるか、それともすぐに帰ってしまう人々の1人になるかの違いなのです。
私は水曜祈祷会や木曜祈祷会に来る人たちにいつも言っていることですが、讃美歌を歌ったらすぐにその頁を閉じず、暫くその讃美歌の歌詞を心に味わって欲しいのです。私のお話をただ一方的に聞くだけではなしに、質問でも感想でも良いですから何かのコメントが欲しいのです。それが天の国の秘密を悟るべく選ばれた人か、そうでない人々かの分岐点だからです。少し前に申し上げたことですが、礼拝の後ファミリー分級に入ったら、まずこの礼拝メッセ−ジについて語り合い、咀嚼(そしゃく)する時間を持って頂きたいのです。礼拝と分級の聖書テキストは異なる場合が多いのに、礼拝メッセ−ジをまず語り合うことによって分級の内容が不思議につながってくることを皆さんはきっと感じられると主にあって確信します。決して分級の邪魔にはならないだろうと思います。
使徒パウロが第二次伝道旅行でギリシャの一地方ベレヤと言う町でみ言葉を宣べ伝えたとき「ここにいるユダヤ人は、心から教えを受け入れ、果たしてその通りかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」(使徒言行録17:11)とあります。「果たしてその通りかどうかを知ろうとして」というのはパウロの語るメッセ−ジを疑う気持ちからではなく、パウロの語る言葉が聖書のどこに書かれているのかを確かめていたという意味です。
メッセ−ジを分かり易く伝えることは語る側の当然の責任です。しかし聞く側に責任が伴うこともまた当然です。ある意味でこの世の様々な出来事は、全て神さまが私たちにご自身のご計画を知らせる譬え話のようなものなのかも知れません。現に13章の譬え話集は浮世離れした作り話ではなく、実に現実に即した題材から語られています。分からないことだらけの世の中で、謎に満ちた経験をしながら、それでも主日毎に教会の礼拝に来て、語られるメッセ−ジに常に祈りの姿勢で耳を傾ける人にはこの世の出来事が何を意味しているのかが見え、天の国の秘密、人生の謎が一つ一つ明らかにされて行くことでしょう。幸いなのはその道で主イエス・キリストに出会うことが出来る人です。
「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(口語訳箴言3:6)
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
あなたはこの世の様々な出来事をヒントに天国のことを私たちに教えて下さいます。あなたは主日礼拝毎に聖書を通してこの世の謎に満ちた出来事に振り回されやすい私たちの心を整え、冷静さを取り戻させて下さいます。そればかりでなく、この礼拝で語られるメッセ−ジを通して天国の秘密を少しずつ悟らせて下さいます。
主よ、私たちを天国の民に相応しく、あなたを畏れ、人々に謙り、なすべき努めに忠実、且つ熱心な者でおらせて下さい。主イエスの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。