【主日礼拝メッセージ】                           2001年3月4日

「隠されていた宝」

マタイによる福音書13:44

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                

 一人の小作人が、いつものように畑を耕していました。すると鍬(くわ)の先が何か固い物に当たったような手応えを感じます。やれやれまた岩にぶつかったかと、周りを掘って取り出して見ると、何とそれは瓦や石ころではなく、宝物でした。恐らく度重なる戦乱の結果、宝を埋めた人もその子孫も死に絶えた上、土地の持ち主も代替わりを繰り返し、今ではそこに宝物が埋まっていることさえ忘れられていたのでしょう。こうなったらもう仕事どころではありません。宝を土に埋め戻し、大喜びで家に帰り一切合切を売り払って地主の処に行って畑を買い、お目当ての宝物を手に入れました。それはまさに偶然の出来事です。だからこそ彼の喜びは大きいのです。 

 主イエスは何故このような話をなさったのでしょうか。これは世俗の笑い話ではありません。隠されている天国の秘密のお話です。天国を得るとはこう言うことだと主は言われます。畑に隠されていた宝に譬られた「天国」は、このように偶然発見するものです。私たちは神が造られたこの世界で幸福を求めて生きていますが、主イエスは天の国、神の支配される国に生きる者だけがその幸福を手に入れることが出来ると言われます。神は永遠の方ですから、神に生きようと願う者も永遠の命に生きる事ができるのです。

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【メッセージ本文】       「隠されていた宝」

                マタイによる福音書13:44

 

 主イエスの数多い譬え話の中で、これもまた短いけれども内容豊かなお話です。それは全ての人の人生を最も幸福なものにする宝物を神はあなたのために隠しておられると言うメッセ−ジです。ではこの宝はどこに行けば手に入れることが出来るのでしょうか。それはどれほどの値打ちのある物なのでしょうか。そしてこの譬え話の言う宝物とは一体何なのでしょうか。 

 一人の農夫が、と言ってもこの人の場合は雇われ農夫か、一定の土地を借りて農業を営む小作人のような者です。この畑は彼の所有地ではないからです。ある日、彼はいつものように畑を耕していました。すると鍬(くわ)の先が何か固い物に当たったような手応えを感じます。やれやれまた岩にぶつかったかと、周りを掘って取り出して見ると、何とそれは瓦や石ころではなく、宝物ではないですか。多分昔この辺りは繰り返し戦場となって、その為に宝を埋めて置いた人もその子孫も死に絶えて、土地の持ち主も代替わりを繰り返し、今ではそこに宝物が埋まっていることさえ忘れられていたのです。農夫は周りを見回しました。幸い人のけはいはありません。こうなったらもう仕事どころではありません。それを元通りに土に埋め戻し、大喜びで家に帰り一切合切を売り払って地主の処に行き、交渉の上畑を買い入れ、お目当ての宝物を手に入れたという漫画のようなお話です。農夫はそこに宝が埋まっているなどとは露ほども知らなかったのです。それはまさに偶然の出来事です。だからこそ彼の喜びは大きいのです。 

 ところで主イエスは何故このような話をなさったのでしょうか。これは世俗の笑い話ではありません。隠されている天国の秘密のお話です。天国を得るとはこう言うことだと主は言われます。畑に隠されていた宝に譬られた「天国」は、このように偶然発見するものです。私たちは神が造られたこの世界で幸福を求めて生きていますが、主イエスは天の国、神の支配される国に生きる者だけがその幸福を手に入れることが出来ると言われます。神は永遠の方ですから、神に生きる者も永遠の命に生きる事が出来ます。この宝を巡って歴史上実在した2人の人物についてご紹介しましょう。 

 徳川家康という武将の名前を知らない人はいないと思います。彼は名ある大名の家に生まれたばかりに幼い頃から色々な武将の家に預けられ、人質とされていました。結婚して子をもうけても、天下統一を目指す織田信長に対して逆心なき証として世継ぎと期待する子をさえ切腹させなければなりませんでした。その涙が渇く間もなく今度は愛妻の命も差し出さざるを得なくなります。こうまでして漸く「征夷大将軍」という武将として最高の地位と栄誉に上り詰めた彼ですが、その後「人の世は遠き道を重き荷を負うて生きるが如し。急ぐ無かれ」と詠っています。天下を制圧した家康にしてなお幸福とは縁遠い自分を告白せざる得ないのです。自分が切に求めていたものを得る為にあらゆるものを犠牲にしてきた過去を振り返った時、そこには多くの涙の泉が埋めようもなく残されています。またこの先の人生を考えても、なおもこの地上をただ骨折りと悩みの中で終えるだけの人生だと言うのです。

 これに対して使徒パウロは自分の半生を振り返ってこう言っています。

「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかしわたしのとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。それはわたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見出すようになるためである」(ピリピ3:5〜9)と言います。

 この回想の意味は、自分は家柄、教養、社会的地位、宗教家としてどの点を取っても人に引けを取らなかった。しかし、その全てのものもイエス・キリストに出会ったとき、この方が与えて下さったものを受けるために、それらのものを全て手放したが、今思い返しても悔いはないと言うことです。また現在の心境を語ってこうも言っています。

「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(コリント4:7)。
更にこの先の人生についても
「わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう」(テモテ4:6〜8)と言いました。 

 紀元1世紀のヨーロッパ社会にキリスト教の土台を築きながら地中海世界を駆け抜けたパウロの生涯は実に過去の罪の全てを贖われ、救われた確信故に神への感謝があり、今充実した人生を生きる喜びに溢れ、将来、いや死後も永遠の命が約束されている確信の故に希望に満ちあふれています。一方、徳川家康は16世紀の人です。当時は既にキリスト教がこの国に布教を始めていました。彼の人生の畑にもこの宝は埋められていたのです。鍬を入れさえすればそれは彼のものにもなったはずです。しかし彼は自らそれを拒み、教会を迫害し、宣教師たちを国外追放してしまいました。 

 愛する兄弟姉妹、あなたはこの世でほしいものを求めて良いのです。しかし、無くてならぬものは多くありません。たった一つの尊い宝を受け損なわないようにしなければなりません。 

祈りましょう。

 天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。今朝、私たちにとってこの世は神の畑であること、私たちの人生はこの畑で無くてならないたった一つの宝物、永遠の命を得るようにと生かされていること、イエス・キリストこそ私たちが本当に求めなければならない最も尊い宝であると言うことを知りました。

主にあってあなたに聞き従うことを第一とします。どうか、私たちの過去を赦し、今を聖別し、将来を希望に満たし、終わりを全うさせて下さい。主イエスの御名によってこの祈りをお捧げします。アーメン。


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