【主日礼拝メッセージ】 2001年3月25日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
「つまずく」と訳されたギリシャ語は「スカンダロス」(「スキャンダル」の語源)で、「憤った」とか「嫌悪の念を抱いた」という意味です。今日読む聖書の中で「人々はイエスにつまずいた」と書かれています。人々は主イエスの何につまずき、何に嫌悪の念を抱いたのでしょうか。
主イエスはお育ちになったナザレの町へ行き、ある安息日に会堂で神の国の福音を語り始めました(ルカ4:16)。所が集まった人々のイエスに対する関心は次第に別の方向に向けられて行きます。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹達は皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」と驚きました。大工という職業そのものに人々の軽蔑や差別意識が働いていたとは思えません。問題はそのような貧しく、社会的地位の低い家庭の息子がどうして?と言う驚きです。このような不信仰を主イエスは嘆いて「あなた方は謙らなければ神さまの恵みから漏れますよ」と警告を発しましたが(ルカ4:25〜27)、これが人々の激高を買い「大工の息子ふぜいが何を生意気な!」という反感に変わって行き、ついには恐れ多いことにこの主イエスを殺そうと思うに至ったと言うことです。人々は語られている内容に耳を傾けようとしないで、語っている人の学歴や家柄や資格、そのようなことばかりに気を取られて、肝心要(かんじんかなめ)の、神さまからの恵み深く、きよいみ言葉を聞き漏らしてしまったのです。
聖書が言う「つまずき」とは、単に小石に足をとられた時に使う以上に深刻な意味を持つ言葉です。これは人間関係を危うくする大きな力があり、ひいては神さまとの関係さえ破壊してしまうほどの恐ろしい力を持つ言葉です。ゆめゆめ恵みから漏れることのないように、謙ってみ言葉に聞き従う者となりましょう。
「つまずく」と訳されたギリシャ語は「スカンダロス」(「スキャンダル」の語源)で、「憤った」とか「嫌悪の念を抱いた」という意味です。「人々はイエスにつまずいた」と聖書は言います。人々は主イエスの何につまずき、何に嫌悪の念を抱いたのでしょうか。
主イエスはお育ちになったナザレの町へ行き、会堂で神の国の福音を語り始めました(ルカ4:16)。所が集まった人々の関心は次第に別の方向に向けられて行きます。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹達は皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」と驚きました。大工という職業に人々の軽蔑や差別意識が働いたとは思えません。問題は貧しく、社会的地位の低い家の子がどうして?と言う驚きです。
私は日本バプテスト大阪教会でイエス・キリストに出会い、信仰決心をしてバプテスマを受けました。やがて神さまから伝道者として立てとの召命を受けて関西聖書神学校に入学しました。最終学年を迎えたとき、京阪バプテスト伝道所から招きを受け、卒業後もそのまま牧師として招聘を受けました。故郷(ふるさと)伝道です。数年後に教会組織をし、名前も京阪から「北大阪キリスト教会」と改め、新たな歩みを始めました。母教会は大阪教会です。大阪教会はお金も人材もないのに、牧師を初め信徒全員開拓精神だけは旺盛で、北は鳥取、南は和歌山、西は奈良、そして大阪府下にある9つの伝道地を開拓し、それぞれ教会組織を成し遂げ、現在に至っています。そんなわけで牧師になって京阪伝道所に招かれた時も、色々な教会に交換講壇やその他のご奉仕で出向きましても、大体の人は青少年時代を共に大阪教会で過ごした人たち、可愛がって下さった人たちですから、どこに行っても「やあ、懐かしいね」という挨拶を交わす言葉から始まります。ですから礼拝や集会で講壇に立ちましても、皆さんは私を通して神さまのメッセ−ジを聴くというよりも「あの小さかった子がこんなに大きくなって、しかも一人前のことが言えるようになったか」と、感慨深げに私の顔をしげしげと眺めるばかりです。後でお茶を啜(すす)りながら話に花が咲いて分かったことは、メッセ−ジを聞いていなかったのだということです。
主イエスの故郷伝道も似たような状況ではなかったでしょうか。私の場合はただ懐かしがっただけですが、ナザレの人々の場合は違います。ただ懐かしがってばかりいません。主イエスの力ある御業を見、メッセ−ジを聴くに従って明らかに反感を抱き始めました。「自分たちと変わらない境遇のイエス、その母親と弟妹たちも軒を並べて生活している仲間だと思っていたのに、『先生、先生』と言われて良い気になっている」と、そのような反感ではなかったでしょうか。彼らはイエスの語るメッセ−ジの内容よりも自分たちを差し置いて先生と呼ばれるほどに偉くなってしまったイエスに妬みを感じたのです。妬みは反感となり、嫌悪となって行きました。こんなことはあり得ないと考えることの出来る人はとても柔和な方です。その心を大切に保ち続けて欲しいと思います。
新潟市東に国際航路の港があります。その港に続く道にボトナム通りという名前の並木路があります。ボトナムというのはハングル語で「柳」という意味です。昔日本政府と軍によって無理やり連れてこられた人たちが、戦後この港から朝鮮民主主義人民共和国に帰るに際して記念に植樹していった柳です。故国では政府から、「資本主義の道を歩む日本の人民はとても貧しい生活を強いられているので、同胞は我々の保護を求めて帰ってくる。優しく迎えて上げなさい」と教えられました。市民は心から同情して自分たちも貧しいのに、色々な生活物資を用意して出迎えに行きました。所が船から下りてくる人々を見て驚きました。皆がみなと言うわけではありませんが、自分たちよりも遙かに生活レベルの高い生活をしていたことが一目で分かるような服装です。実は日本から帰国してきた人たちも政府から「北の同胞は極度の貧困に喘いでいるので、同胞を助けるために出来るだけ多くのものを持ち帰って、分けて上げなさい」と指示されていたのです。それで出来るだけ良いものを身につけました。身につけているものには関税がかからないからです。帰国する同胞のために助けて上げようという善意は、日本から帰ってきた人たちの身なりを見た瞬間失望に変わり、同情は憎悪に変わってしまいました。それからというもの、帰国した人たちは同胞から無視される生活が始まったというのです。この悲しい事件は後に米国に亡命した人が書いた「凍土の国」という本に紹介されています。
朝鮮半島北の国で起こった事は主イエスの時代にも起こりました。自分たちの仲間はいつまでも自分たちと同じレベルでなければならないと言う誤解が、自分たちと違うレベルの生活を始めた人を意外な目で見るのです。このような不信仰を主イエスは嘆いて「あなた方は謙らなければ神さまの恵みから漏れますよ」と警告を発しましたが(ルカ4:25〜27)、これがますます人々の激高を買うことになり、「大工の息子ふぜいが何を生意気な!」と憤り、ついには恐れ多いことに主イエスを殺そうと思うに至りました。ナザレの住民は主イエスの生い立ち、家柄、学歴、資格、そのようなことばかりに気を取られて肝心要(かんじんかなめ)、神さまからの恵み深く、聖いみ言葉を聞き漏らしてしまいました。
福音書は「イエスは誰か」という問いに答えてくれるこの世で唯一の書物です。主イエスはベツレヘムに生まれ、ナザレにお育ちになられましたが、それは世を忍ぶ仮のお姿です。使徒パウロは言います。
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それ故に、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリピ2:6〜11)と。主イエスがあくまでご自身を低くされたのは、全ての人を栄光の神の高さにまで至らせるための、栄光の御国に続く道となるためであったのです。 しかし人々はその主イエスの低さにかえってつまずいてしまったのです。聖書が言う「つまずき」とは、単に小石に足をとられた時に使う以上に深刻な意味を持つ言葉です。これは人間関係を危うくする大きな力があり、ひいては神さまとの関係さえ破壊してしまうほど恐ろしい力を持つ言葉です。ゆめゆめ恵みから漏れることのないように、謙ってみ言葉に聞き従う者となりましょう。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
私たちが教会に集められているのは、神のみ言葉に聴くためです。神のみ言葉に聴くことはイエス・キリストがどのような方であるかをより深く知るためでした。そして今日私たちは知ることが出来ました。イエス・キリストは父なる神の独り子でありながら、私たちを救うために人間の姿で降ってきて下さいました。主イエスがそこまで低くなって下さらなければ、私たちはとてもあなたの高さに達する道を知りません。
どうか神の謙遜に倣い、私たちの心も低くなり得ますように。あなたにつまずく者とならないように、私たちをお導き下さい。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。