【主日礼拝メッセージ】 2001年4月1日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
からし種の木は成長すると3〜4mくらいにはなります。黄色い花びら、形は細長い筒状で、タバコの花に似ています。花が終わると、その根本(ねもと)に袋状の物ができて、その袋の中には無数の種が入っています。それはそれは小さな物で、一粒だけ取り出すなんて事は不可能です。気を付けないと微(かす)かな鼻息でも吹き飛んでしまうほどです。そのように一つの花に無数の種が出来るのに、その花もまた無数に咲きます。このように主イエスが譬として用いられたからしだねもパン種も初めはとても小さなものなのに、地面に播かれたら、或いはパンの生地の中にはいると、もの凄い成長を見せると言うことです。
現代社会は激しく病んでいます。人々の心も病んでいます。この世界は元々神の作品、神のものでしたが、サタンは巧みに人の心に入り込み、この世を支配しようとしています。それでこの世は病んでしまっているのです。しかしこの問題だらけの世界に主イエス・キリストはからしだねとして、またパン種として天からくだってこられました。神のものであったこの世を取り戻し、主イエス・キリストの支配に置くためです。混沌としたこの世にからし種のようにまかれて成長し、パン種がやがてパン全体に大きな影響を及ぼすように、主はこの世界に大きな影響を及ぼす支配者となられました。神の国、それはキリストの教会です。世界はこのキリストの支配に服して初めて癒されます。
四国にいた頃、教会の庭にからし種の木を植えた事があります。成長すると3,4mくらいにはなります。花は黄色でその形は細長い筒状で、タバコの花に似ています。朝顔の種のように、花が萎れると、その根本(ねもと)に別の袋状の物に守られて出来ます。その袋の中には無数の種が入っています。それはそれは小さな物で、一粒だけ取り出すなんて事は不可能です。気を付けないと微(かす)かな鼻息でも吹き飛んでしまうほどです。そのように一つの花に無数の種が出来るのに、その花もまた無数に咲きます。今度その種を送って頂いたら皆さんにも見ていただきましょう。とにかくそれほど一粒一粒が小さいので、ここにと思って播いておいても風に跳ばされて、とんでもない所(例えばへいの際とか、建物の基礎部分など)から芽が出てきます。少し大きくなってからそれを目的の所に移植するのがまた大変です。
芥子種がイエスさまの言われた通り本当に野菜だと実感するのは、その種子は香辛料として利用することが出来ます。3,4年で見事に根本(ねもと)まで枯れてしまいます。こんなに大きく育った物を根こそぎ抜くのは大変だなあと思いながら、試しに力を入れて抜こうとすると、弾みで後ろにひっくり返りそうになるほど呆気なく抜けてしまいます。思ったよりも根が浅く、また短いのです。
パン種に至っては私のような者が説明するよりも、皆さんの方が詳しいと思います。主イエスはこのように芥子種やパン種を「成長する天の国」にたとえて教えて下さいました。これで分かるように、天の国は外からの力によってではなく、内部に浸透して変革を引き起こすものなのです。
この世は社会の仕組みや科学、経済の力で幸福を実現できると信じて大変な努力を重ねているとき、教会はひたすら天の国の主であるイエス・キリストの福音を宣べ伝えてきました。しかし今この世は少しずつ気付き始めています。社会の仕組みや経済力だけで人が幸福になると言うのは幻想であったと言うことを。豊かさと便利さを求めて科学は格段の進歩を遂げました。更に成長して行くことでしょう。しかし今そのツケが回ってきました。環境破壊は地球規模で進んでいます。温暖化が進み、島嶼国(とうしょこく)は生存そのものが脅かされています。干ばつによる飢饉、他方洪水のために畑も家も流されるだけでなく、追い打ちをかけるように襲う伝染病、火山の爆発、相次ぐ地震などで人々は恐怖に打ち震えています。神に背き、自然を破壊した結果のツケです。
心の荒廃も進んでいます。主イエスが言われたように、終わりの日が近づくと「人々の愛が冷える」というお言葉どおりに、現代社会は同じ団地やマンションに住んでいながら隣近所との交流が殆どありません。電車に乗り合わせている隣の人には見向きもしないで携帯電話でせっせ、せっせと友人とメール交換をしています。乗り物の中に優先座席があると言うこと自体変な話で、本来全ての席がお年寄りや体の不自由な方、妊婦のために優先されるべきです。所がその優先座席にさえ若者が我が物顔で座っています。教育の現場でも荒廃が進んでいます。企業戦士たちも病んでいます。電子機器部門の先端技術の急速な進歩について行けない中高年や資本力の限界に喘ぐ中小下請け企業はどんどんリストラの犠牲になっています。今一番大きな問題は地球の表面温度がどんどん上昇し、人々の心の中で愛がどんどん冷えて行きつつあるという現実です。
自己中心と傲慢という罪が蔓延しています。これらはみなサタン(神の「敵」と言う意味、悪魔の呼び名)による働きです。サタンは自分の終わり(罪を悔い改めないために最後の審判の日、審かれて地獄に堕ちることが定められている)が近いことを知って、一方では一人でも多くの人間を自分の道連れに破滅へと導こうとして政治を歪め、教育を荒廃させ、環境を破壊しています。彼は人々の心に「神などいない。この世はいつまでも続き、生きとし生ける全てのものは輪廻転生して行くのみである」。と嘯(うそぶ)きます。こうして彼は人々の心を支配し、この世の神として君臨しています。他方真理を語る教会に対しては激しく迫害して攻撃を加えてきます。
主イエスはこのような世界に芥子種のように、パン種のように小さき者、吹けば跳ぶような軽さでこの世においでになりました。クリスマスの日に良く歌われる讃美歌の一つに「ああベツレヘムよ」(日本基督教団出版の讃美歌第一編115番)という歌があります。
その第3節に「しずかに夜露の くだるごとく、めぐみの賜物 世にのぞみぬ。罪深き世に かかるめぐみ、天(あめ)より来べしと たれ(誰)かは知る」という歌詞があります。
神の独り子イエス・キリストはこうして人の姿をもってこの世に天から降ってこられました。この地上を去るときにはまるで重罪人のように十字架という最も恥ずべき死に方でした。これこそいと高き神の子イエス・キリストが、いと低くなられたことによって最も小さき者、これ以下はないと言う低さの中に呻吟する罪人の所にまで降りてきて下さったことを意味しています。十字架こそ神の審判の日に私たち罪人が受けるはずの神の罰を代表するものでした。罪なきイエス・キリストが私たちに代わって神の審きを身代わりに受けて下さったことによって私たちは救われたのです。イエス・キリストが十字架に死んで下さらなかったら、私たちはいつまでも罪人のままであり、神なく希望もなくこの世を生き、行方定めもなく死んでいくだけの人生です。しかし彼は私たち全ての罪を十字架の上で贖いとって下さいましたから、私たちはこの事実を認めて罪を悔い改めてただ信じるだけで救われるのです。いや、救われていることを信じれば良いのです。
主イエスが十字架に死んで墓に葬られたことは当時その死刑に関係した者みなが認めるところです。当局は墓荒らしを防ぐために墓の入り口に大きな石で蓋をし、ご丁寧に封印までしました。所が主イエスは三日目に封印固い大きな墓石を者ともせずに復活なさったのです。ここにおいてイエス・キリストは生と死の主となられました。いまだかつて聖人と呼ばれていても、一度死んで復活した人があるでしょうか。芥子種やパン種に譬えられた天の国、そしてその主であるイエス・キリストはこのように最も小さな者のように謙ってこの世に降り、最も大いなる方としてこの世界を支配しておられるのです。
今こそ真の王なるキリストの御前にあなた自身が謙って従う生活を始めて下さるよう、心からお勧めします。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
この世は豊かさと便利さを求め、またそれによって幸福を掴み取りたいと様々な努力を続けていますが、益々混沌として見通しが立ちません。また自分の幸福は求めますが、人のことには殆ど無関心な世の中です。主が言われたように人々の愛が次第に冷えて行くのを感じます。
しかし主イエスはこのような時代のただ中でもご自分の国、キリストの教会を通して、彷徨う人々の心に芥子種のような、パン種のような小さな小さな福音を蒔き続けて下さいます。人々がこの種に望みをかける限り、決して不幸になることはないとあなたは約束して下さいます。何故ならこの福音の種にはあなたの御子イエス・キリストの復活の命が宿っているからです。あなたの憐れみ深い救いのみ手に今、全ての人が縋ることが出来ますように。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。