【主日礼拝メッセージ】 2001年4月8日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
丘の上に三本の十字架が立っています。両側に二人の犯罪人、真ん中に主イエス・キリストが釘付けられています。十字架の下ではそのイエスを嘲(あざけ)る声、声、声。両側の犯罪人も苦しみの余り、イエスさまに八つ当たりをするように罵(ののし)り始めました。しかし主イエスはさながら地獄を思わせるこの場を楽園の入り口に変えて下さいます。受刑者の一人が罵り続けるのをもう一人はたしなめて「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」と言い、更に「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と告白しました。もう一人の犯罪人のように「救ってみろ」等とはとても言えません。でも心は神に還っているのです。
「思い出して下さい」とは、神に立ち帰った私の心をせめて御心の片隅に留めて下さい」という祈りです。これを悔い改めと言います。悔い改めとは救われることが前提ではありません。しでかした罪の責任から逃れられると彼は思っていません。この罪人の私を煮るも焼くも地獄に落とすも、全てはあなたの御心のままですと言う告白、これが悔い改めなのです。
すると思いがけない言葉がイエスの口から聞こえてきました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。「楽園」とはエデンの園の回復された状態を指すとユダヤ人は考えていました。つまり罪と死と滅びという神の審判から解放された世界です。この死刑囚はその楽園でただ主イエスの記憶に残るのではなく、楽園の住民として受け入れられたのです。救いは罪を認めて悔い改めた者に対する神さまからの一方的恩寵(おんちょう=特別の愛)なのです。
丘の上に三本の十字架が立っています。両側に二人の犯罪人、真ん中に主イエス・キリストが釘付けられています。十字架の下ではそのイエスを嘲(あざけ)る声、声、声。「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:44、マルコ15:32)のです。「強盗たち」とありますから、最初は二人して真ん中にいる主イエスを罵っていたのです。
この人も初めから自分を罪深い人間と認めていたわけではありません。最初は「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」(マタイ27:44、マルコ15:32)のです。「強盗たち」とありますから、二人して真ん中にいる主イエスを罵っていたのです。今日(こんにち)死刑制度の是非を巡って議論されています。この制度を支持する人の中には、極刑を科することによって本人に罪の自覚を促し、社会的には見せしめの効果があると言います。そうかも知れません。だがこれは例外なのでしょうか、イエスを真ん中にした二人の死刑囚にはその罪意識が見られません。十字架の下では緊張をもってイエスと二人の死刑執行を見守ると言うよりも、野次馬のような喧噪が聞こえてきます。見せしめの効果は感じられません。まさに地獄絵です。
しかし主イエスはさながら地獄を思わせるこの場を楽園の入り口に変えて下さいました。かなりの時間が経ちました。なおもイエスを罵り続ける死刑囚に向かって、もう一人はそれをたしなめて「お前は神を恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」と言いました。罪と罰の重さを知り、神を恐れることこそ、極限状態に置かれた人に残されたラストチャンスです。犯罪人の一人は今そのチャンスを見出しました。この言葉を一番聞きたかったのは、或いは彼によって身内を殺された被害者の遺族ではなかったでしょうか。被害者の遺族にとって一番の慰めを与えられた瞬間、心の傷が癒される瞬間ではなかったでしょうか。もう一人この言葉を待っている人がいました。イエス・キリストです。死刑を執行される人の気持ちを百%理解することは難しいことですが、人生の中で最も孤独の時ではないでしょうか。この最も孤独な世界に、しかし神の独り子イエス・キリストも一緒にいて下さいました。犯罪人の一人は今本当の意味でイエス・キリストに出会うことが出来ました。
この出会いは一期一会の出会いではなく、永遠の始まりでした。どうしてそんなことが言えるかとあなたは訊ねますか。それは彼の続く言葉によってです。彼はこう言いました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかしこの方は何も悪いことをしていない」と。イエスが何も悪いことをしていない方であることをこの犯罪人が知ったのはいつでしょうか。十字架の下にいる人々が盛んに罵り、嘲っている時、つい先程まで自分もその一人としてイエスを罵っていた時、イエスの口から出た言葉は「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)という神への執り成しでした。この執り成しの言葉を彼は一番近くにあって聴くことが出来たからではないでしょうか。
イエスは十字架上で七つの言葉を苦しい息の下から発せられたと聖書は伝えています。彼はその全てを聴くことが出来ました。その七つの言葉のどの時点からか分かりませんが、この方は何も悪いことをしていないと確信できたのです。或いは十字架につけられるような悪の限りを尽くしていた頃からイエスの噂は聞いていたかも知れません。今その方が自分のすぐそばにいて、天の父なる神に執り成して下さっている。自分ももしかしてその執り成しの中に含まれているのかしら。いや自分にその資格はないだろう。そんなことを彼もまた苦しい息の下で考えていたのかも知れません。でも地獄に堕ちるようなことをしたその罪を認めたことは告白しておこう。そう言う必死の思いが「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という言葉となったのではないでしょうか。
もう一人の犯罪人のように「救ってみろ」等とはとても言えません。「もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)と父親の前に跪いた放蕩息子の心境です。「救われる資格がないことは承知しています」という心境です。でも心は神に立ち帰っているのです。「思い出して下さい」とは、神に立ち帰った私の心をせめて御心の片隅に留めていて下さい」という祈りなのです。神に立ち帰る心を言葉に表すことで神に立ち帰ったことが誰の耳にもはっきり伝わるのです。これを悔い改めと言います。悔い改めとは救われることが前提ではありません。しでかした罪の責任から逃れられると彼は思っていません。この罪人の私を煮るも焼くも地獄に落とすも、全てはあなたの御心のままですと言う告白、これが悔い改めなのです。
主イエスは彼の悔い改めの言葉を受けて、すぐに答えて下さいました。「はっきり言っておくが」とはギリシャ語の聖書で「アーメン、わたしはあなたに言う」とあります。ヘブル語の「アーメン」とは皆さんもご承知の通り、「まことに」と言う意味です。単なる言葉の彩、リップサービスではありません。「わたしは嘘を言わない。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束して下さいました。
カトリック教会では神の恵みの内に死んだけれども、まだ償うべき罪の罰やまだゆるされない小さな罪を持っている者の霊魂は、一時停留所のような煉獄の世界に置かれると言います。そこで試練を乗り越えたら楽園、パラダイス、天国へ行けるのだそうです。
しかしイエスはそんなことを仰ってはいません。「煉獄に行った後」ではないのです。その内にでもないのです。「今日」なのです。神の御前に罪を認めて告白した人、悔い改めた人は誰でも「今日イエスさまと一緒に楽園に行ける」のです。どんな罪人でも罪を認めて悔い改めるなら直ちに救われるのです。「楽園」(パラダイス)とはエデンの園の回復された状態を指すとユダヤ人は考えていました。つまり罪と死と滅びという神の審判から解放された世界です。この死刑囚はその楽園でただイエス・キリストの記憶に残る存在ではありません。彼自身がイエスと共にその住民としての権利を得たのです。「イエスと共に」とはどこかで聞いたことのある言葉です。マタイ1:23の「インマヌエル」です。これはイエスのためにつけられたニックネームです。そしてそこには「神は我々と共におられる」という意味があると説明されています。楽園とは神の独り子イエス・キリストが一緒にいて下さる世界なのです。この死刑囚は地獄への入り口の前で、イエス・キリストに出会い、インマヌエルの世界を知りました。絶望の縁にあった彼のそばにインマヌエルの主が一緒にいて下さったのです。
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)。人は時々死刑囚のような孤独を経験することがあります。目の前には死と絶望しか見えないことがあります。罪の意識に苛まれて苦しみもがくことがあります。しかし下には永遠の腕があります。イエス・キリストはあなたのどのような状況の中にも近づいて下さいます。独りぼっちと思っている世界にもイエスはおられるのです。そして、あなたを思い出すだけでなく、あなたを楽園に伴って下さいます。今こそ罪を悔い改めて十字架のイエスの御前に跪こうではないですか。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。十字架による死刑という最もおぞましい世界にあなたは独り子イエス・キリストを送って下さいました。それはどのような罪を犯した者でも、もし心からその罪を悔い改めるなら、誰でも救われるという保証を与えるためでした。もし十字架にイエスがいて下さらなかったらあの死刑囚は絶望するしかありませんでした。
同じように私たちの人生にあなたが共にいて下さらなかったら私たちもまたただ絶望しながらこの世を離れなければなりません。しかしあなたはインマヌエルの主として私たちにいつも寄り添って下さっています。心から感謝します。どうか今日このメッセ−ジに与った全ての人を楽園へとお導き下さい。私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。