【イースター礼拝メッセージ】 2001年4月15日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
イースターおめでとうございます。皆さんとご一緒に主イエス・キリストのご復活をお祝いできることを嬉しく思います。
さて、マグダラのマリヤを初めとする数名の女性の弟子たちは明け方早くイエス・キリストの下に行きました。行く先は墓場でした。十字架につけられたイエスの遺体に香料を塗るためです。しかしそこにイエスの遺体はありませんでした。墓はもぬけのからです。彼女たちは途方に暮れました。
「途方に暮れる」とは、これから先どこへ行って良いのか分からなくなってしまったと言うことです。葬られたはずのイエスの姿がそこにないことは実に喜ばしいはずです。何故なら主イエス・キリストはかつて、「わたしは罪人たちの手で十字架にかけられて死ぬ、しかし三日目に復活してまたあなたがたと会う」と約束して下さっていたからです。しかし信仰の眼が曇っていたので、その御言を忘れていました。彼女たちはイエスを愛し、慕っていました。しかし死は全ての終わりという現実の壁が高く分厚く彼女たちの前に立ちはだかっていました。だからイエスの遺体がないことで途方に暮れてしまったのです。
その時「輝く衣を着た二人の人」が現れて「何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と言います。彼らは神から遣わされた御使でした。
イエスは確かに衆人環視の中、十字架に死にました。しかし御使はそのイエスを指して「生きておられる方」と言います。実にイエス・キリストは死んだことはあるが、見よ今も生きておられるのです。
私たちはキリスト教を信じる者ではなく、キリストを信じる者です。私たちはキリスト教徒ではなく、キリスト者なのです。教えを信じる者ではなく、教えを語るその方を信じる者です。今イエス・キリストはあなたに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25)と問いかけておられます。
イエス・キリストを「今も生きておられる方」と告白する以外にキリストの弟子とはなれません。そうなのです。キリストの弟子たる道は聖書の語句の知識ではありません。イエス・キリストのみ言葉をいつも思い起こして、復活を信じられるか否かにかかっているのです。
イースターおめでとうございます。皆さんとご一緒に主イエス・キリストのご復活をお祝いできることを嬉しく思います。
さて、マグダラのマリヤを初めとする数名の女性の弟子たちは明け方早くイエス・キリストの下に行きました。行く先は墓場でした。十字架につけられたイエスの遺体に香料を塗るためです。しかしそこにイエスの遺体はありませんでした。墓はもぬけのからです。彼女たちは途方に暮れました。「途方に暮れる」とは、これから先どこへ行って良いのか分からなくなってしまったと言うことです。彼女たちはイエスを愛し、慕っていました。ガリラヤからついて来るほど熱心な弟子たちです。しかし彼らのイエスに対する愛と信仰にはまだこの時限界がありました。彼女たちは自分たちの人生経験に固執して、その延長線上でしかイエスを考えていなかったのです。死は全ての終わりという現実の壁が高く分厚く彼女たちの前に立ちはだかっていました。だからイエスの遺体がないことで途方に暮れてしまったのです。
しかしルカによる福音書はここで驚くべき使信を私たち読者にもたらしてくれます。けれどもこの4節は少しインパクトが弱い気がします。新共同訳聖書ではギリシャ語本文分から抜け落ちている単語があるためです。「見よ」という単語が抜け落ちているのです。「見よ、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」と私たち読者の注意を喚起します。「輝く衣を着た二人の人」は神から遣わされた御使です。御使は神のメッセ−ジを人間に伝える者ですが、「輝く衣」とあるように、彼らは神の栄光を反映しています。「何故、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と御使は言います。これも本文そのままに読むと「何故、生きておられる方を死んでいる者の中に捜しているのか」となります。ここに「生きておられる方」、「死んでいる者」、「捜している」と言う三つの現在分詞が見られます。
人は死ねばそれまでと言う固定観念そのものが既に神の御前に「死んでいる者」なのです。キリストの墓参りをしながら、その墓の下に眠る方が甦ると言うことが信じられないで、昨日も今日もまたその次の日も「死者を捜し続け」ているのです。それはマグダラのマリヤや女性の弟子だけではありません。11人の使徒と呼ばれる男の弟子たちもまた復活のメッセ−ジを「たわごとのように聞こえた」と言います。ペトロは墓へ走って行きました。なるほど墓は空っぽです。驚きました。どう言う驚きだったのでしょう。もしマグダラのマリヤの言葉が信じられたのなら仲間の所に引き返したはずです。でもペトロは家に帰ってしまいました。どこかでまだ半信半疑だったのでしょう。
イエスは確かに衆人環視の中、十字架に死にました。しかし御使はそのイエスを指して「生きておられる方」と言います。実にイエス・キリストは死んだことはあるが、見よ今も生きておられるのです。
私たちはキリスト教を信じる者ではなく、キリストを信じる者です。私たちはキリスト教徒ではなく、キリスト者なのです。教えを信じる者ではなく、教えを語るその方を信じる者です。今イエス・キリストはあなたに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25)と問いかけておられます。イエス・キリストを「今も生きておられる方」と告白する以外にキリストの弟子とはなれません。そうなのです。キリストの弟子たる道は聖書の語句の知識ではありません。イエス・キリストのみ言葉をいつも思い起こして、復活を信じられるか否かにかかっているのです。
昔全国牧師研修会に北里大学付属病院長である坂上正道教授を講師としてお呼びしたことがあります。彼は1970年代、所謂大学紛争に巻き込まれ、若手の医局員に取り囲まれて食事も摂れず、トイレにも行かせてもらえず、一睡も許されないまま丸二日間討論に応じさせられました。遂に心筋梗塞で倒れて病院に運ばれ、生きるか死ぬか非常に危険な状態が続きました。家族は密かに葬式の段取りを進めていたそうです。そんなある日、スペイン人の宣教師が病床に立ち「坂上さん、あなたは死んでも良いのです。でも治るとなお良いですね」と言いました。なぜかその言葉を聞いた直後、すうっと憑き物が落ちたというか、えもいわれぬ平安な気持ちになったと言うことです。
坂上教授は「私が何故この言葉で深い慰めと平安を得たか、それは私が復活のイエス・キリストを信じていたからです。使徒パウロの言葉「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1:21)が力強く私の胸に響いてきた瞬間でした。このキリストに自分の生と死を委ねてしまえばよいのだと、あの宣教師の一言によって本当に分かったからです」と言いました。
この証を聞いた私たち牧師も非常に慰められ、平安へと導かれました。坂上教授の証はまさに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25)と言うイエス・キリストの問いかけそのものとして聞こえたからです。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
クリスマスがなければ私たちはあなたの愛を知りませんでした。イエス・キリストが十字架に上げられなかったら、私たちは今も罪に服する者でした。イースターがなかったら、私たちの信仰は空しく、この地上で終わり、私たちはあなたからいつまでも切り離されたままで、死と滅びの運命から解放されることはなかったでしょう。
しかしあなたは確かに御子イエスをこの世界にお与え下さいました。この罪を知らない聖いお方が十字架に死んで下さいましたから、私たちは自分の内に罪を発見して悔い改めに導かれました。イエス・キリストが甦って下さいましたから、私たちの罪は清められ、救いに入れられ、永遠の命を頂くことができました。
私たちは今も生きておられる主イエス・キリストを心から信じ、あなたの栄光を拝します。今より後、全ての人があなたによって御国の門をくぐることが出来ますように、
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。