【主日礼拝メッセージ】 2001年4月22日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
三浦綾子さんの名作の一つに「氷点」という小説があります。「氷点」とは摂氏零度、つまり水が凍りはじめる温度であり、氷が融け始める温度です。このような心は誰にもあると言うのです。確かに私たちは日々に心が凍りついて行くのを感じながらどうすることも出来なかったのです。毎日仕事に追われながら身も心も疲れ果て、友人と言える者もほとんどなく、誰にこの思いを伝えたら良いのかという孤独感が益々心を冷え冷えとさせています。
しかし私たちは感謝します。仮に私たちが神に背を向けて孤独な日々を送っていても、またどんなに不信仰の世界を彷徨(さまよ)うことがあっても、主イエス・キリストは私たちの人生に近づいて、私たちの愚痴や呟きにじっと耳を傾けながら、聖書(神の言)へと導き、信仰の交わりへと引き戻して下さいます。私たちは確信します。主イエス・キリストにお目にかかる道は、日曜日(イエス・キリストの復活を記念する日)の礼拝毎に聖書を通して語られるメッセ−ジ以外にないと言うことを。
「日暮れて四方(よも)は暗く わが霊(たま)はいと寂し、
寄る辺なき身の頼る 主よ、共に宿りませ」と言う讃美歌があります。
この歌は「復活の主よ、私と共に宿って、私にも復活の命をお与え下さい」という祈りの歌です。
あなたの心に誰も融かすことの出来ない氷点があるでしょうか。イエスだけはそれを融かすことができます。あなたの為に命を懸けて愛して下さった事実を知ったなら融けるはずです。十字架のイエス、復活の主があなたの人生に伴って下さっている事実を信じて下さい。そうすればあなたの心はきっと燃える筈です。人生は祝されます。
三浦綾子さんの名作の一つに「氷点」という小説があります。「海嶺」という題名もそうですが、いずれも表面に見えないものをテーマにしているところに特徴があります。「氷点」とは摂氏零度、つまり水が凍りはじめる温度であり、氷が融け始める温度です。このような心は誰にもあると言うのです。今朝私たちはエマオ途上の二人の経験を通して、心の氷点が神の愛で融かされて行く美しい物語を学ぶことができます。ただ融かされただけでなく「心が燃えていた」と言います。この物語を通して私たちの心にも点火して頂きたいものです。
一、融かされた心の氷点
主が甦られた日の午後、エルサレムからエマオまでその間約11Hの道程を十字架につけられたイエスのことを話題にしながら歩く二人連れがありました。彼らは「イエスは生きておられる」という天使のメッセ−ジも、仲間の女性たちがイエス・キリストの復活を証言するその言葉も信じられないで、ただ失望落胆していました。エルサレムに背を向け、エマオに向かう彼らの姿は信仰の世界に背を向けて不信仰の世界を彷徨い(さまよい)歩く人々の姿に似ています。十字架のイエスを死人の中に捜し続ける人の心はさながら氷点です。不信仰の目は近づいてこられる主イエスを認識出来ません。主は「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(25節)と、その不信仰を責めながらも、共に歩いて下さいます。メッセ−ジを聞いても証を聞いても感動しなかったこの二人の弟子に「(旧約)聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを」(27節)丁寧に繙き、説き明かして下さいました。
ある教会でこの話をした時、1人の教会員が「わたしもイエスさまから直々にこの話を聞きたかったなあ」と仰いました。私も同感です。主イエスがお話なさった時、それを直接耳で聞くことのできたあの二人は本当に幸せ者と思いますが、だからと言って私たちは不幸ではありません。なぜなら主イエスがお話のテキストとしてお用いになった聖書を私たちもまた手にしているからです。21世紀の今日、復活の主は今も聖書を通して語り続けて下さっているのです。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1:1〜2)と新約聖書にあるとおりです。
私たちは感謝します。仮に私たちがどんなに不信仰の世界を彷徨うことがあっても、主は私たちの人生に近づいて、私たちの愚痴や呟きにじっと耳を傾けながら、聴くべき神のみ言葉、聖書へと導き、信仰の交わりへと引き戻して下さいます。また私たちは確信します。主イエス・キリストにお目にかかる道は、主日の礼拝毎に聖書を通して語られるメッセ−ジ以外にないのです。私たちは「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(ヤコブ1:19)と言う教えに忠実でありたいものです。何故なら「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことに始まる」(ローマ10:17)と教えられているからです。
二、交わりの回復
目指す村に近づきましたが、主は更にその先へ行こうとします。「二人が無理に引き留めた」ので、家に入って行かれました。この光景はレンブラントの「エマオの夕餉」という絵を始め、多くの芸術作品を残しました。讃美歌にもあります。教団讃美歌39がそれです。
3. 日暮れて四方(よも)は暗く わが霊(たま)はいと寂し、寄る辺なき身の頼る 主よ、共に宿りませ。
4.死の刺(はり)いずこにある、主の近くましまさば、
我勝ちて余りあらん、 主よ、共に宿りませ。
5.十字架のくしき光 閉ざす目に仰がしめ、
御栄えにさむるまで 主よ、共に宿りませ。アーメン。
クリスマスを歌った教団讃美歌124の折り返しにも「住み給え、君よ、ここに、この胸に」という歌詞があります。「汚れた私の心に主よ、宿って清めて下さい」という祈りが込められています。しかしここ39番では「復活の主よ、私と共に宿って、私にも復活の命をお与え下さい」という祈りが込められています。私たちの祈りはしばしば罪の赦し、清めを求める内容に終始します。それはそれで主は祝福して下さることでしょう。しかし主が最もお喜び下さる祈りは復活の命を求める祈りです。復活の命に満たされてこそ、この世であらゆる誘惑に負けない、清められた信仰生活を可能にしてくれる上に、「主よ、来て下さい」と言う祈りへと止揚されていくのです。復活の命に生きる道は復活の主が共に宿って下さる確信を得ることだからです。
讃美の祈りとパン裂きはその家の主人の役目です。主イエスは今食卓の主(あるじ)としてパンを裂きます。これは主の晩餐という礼典行為です。聖書を学び主イエス・キリストの死と甦りを信じる者に与えられる特別の恵みとしての食卓です。
主からこのパンを受け取ったその時二人の目が開け、主イエスだと分かりました。不思議なことに、するとお姿が見えなくなりました。しかし彼らは主を見ることが出来なくなったというのに、少しも残念がっていません。それどころか、エルサレムにいる仲間の許に引き返して行きました。聖書の解き明かしを受けたとき心が燃やされ、主の晩餐に与ったとき、霊の目が開かれて信仰が回復しました。彼らは今主イエス・キリストの復活の証人として選ばれ、立てられ、そして遣わされて行ったのです。主に愛された者は主に愛された者との交わりを大切にします。主に愛された者は主を知らぬ人々に主を証しないではいられないのです。エルサレムに引き返すと言うことはある意味で危険なことです。エルサレムに残された弟子たちはイエスの次に自分たちをも逮捕される危険を感じて部屋の戸にしっかり鍵をかけていたほどです(ヨハネ20:19)。そのような危険な所へ二人は立ち帰って行くとはどう言うことでしょう。心燃やされていたからです。復活の主にお目にかかった喜びに満たされていたからです。
あなたの心に誰も融かすことの出来ない氷点があるでしょうか。しかしイエスだけはそれを融かすことができます。あなたの為に命を懸けて愛して下さった事実を知ったなら融けるはずです。十字架のイエス、復活の主があなたの人生に伴って下さっている事実を信じて下さい。そうすれば心はきっと燃える筈です。人生は祝されます。 祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
私たちは十字架のイエスは思い出せても生きている方を死人の中に捜し求めては信仰の交わりに背を向けて彷徨っていました。日々に心が凍りついて行くのを感じながらどうすることも出来なかったのです。エマオ途上の人は曲がりなりにも二人連れでした。語り合える関係の人がいました。しかし私たちは仕事に追われながら疲れ果て、友人と言える者もほとんどなく、誰にこの思いを伝えたらよいのかという孤独感が益々心を冷え冷えとさせています。しかしあなたはこの私たちの愚痴や呟きにじっと耳を傾けながら、聖書を通して神の愛、主の恵みの世界へと私たちを導いて下さいました。そして「あなたは決して孤独ではない」と語りかけて下さいます。私たちの目を開き、インマヌエルの主を示して下さいました。
私たちは今心が融かされます。いや燃え立ちます。あなたの愛に触れたからです。あなたを知った今、もう職場も家庭もいかなる環境もそこは心を冷やす力とはなりません。全ての所であなたを認めることが出来るからです。私たちはもう一度私たちのエルサレム、信仰の交わりに帰ることが出来たからです。主よ今私たちをまだあなたを知らぬ人々の所へ遣わして下さい。主は甦られたと証しするために。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。