【主日礼拝メッセージ】                           2001年4月29日

「罪が熟して死を生む」

  マタイによる福音書14:1〜12

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 ヘロデは異母兄弟のフィリポからその妻ヘロディヤを奪い取って結婚しました。このようなことは聖書の教えに反しています。バプテスマのヨハネは「神を恐れよ」と忠告しました。好きになったら例え相手が既婚者でも良いというわけには行かないと聖書は教えています。ヨハネは王が終わりの日、神の審きから免れるように悔い改めの機会を与えました。しかし王は逆恨みしてこの忠告を退けたばかりか、彼を捕らえて獄に閉じこめてしまいました。欲がはらんで罪を生みました。

 ヘロデ夫妻、特にヘロディヤは自分たちを夫婦と認めないヨハネを亡き者にする機会を窺っていましたが、ヘロデの誕生パーティーの席でヘロディヤの娘がステージに立って独り踊りを始めました。見事な舞にヘロデは感動し、「願うものは何でもやろう」と誓って約束しました。ヘロディヤは好機到来と娘を唆してヨハネの首を所望しました。ヘロデは一瞬戸惑いました。しかし結局その申し出を断ることが出来ませんでした。「誓ったことではあるし、客の手前」という面子の為に。神よりも人を恐れた結果、神の僕を斬首してしまいました。罪が熟してついに死を生みました。ヨハネの死は一時の眠りですが、これによってヘロデは神の審きによる永遠の死を招いてしまいました。

 私たちは人の死に出会うと、その人の人生の意味を考えます。死は人生の総決算ですから。ヘロデとヘロディヤ、そして娘はその後どのような人生であったのか。少なくとも、ヘロデに関する歴史的資料は悲観的な報告しか私たちに与えてくれません。

 ではバプテスマのヨハネの人生の意味は一体何だったのでしょうか。彼の死は神の言葉の取り次ぎをする「声」としての死であります。声としての預言者が死んだことによって、声の内実である「神の言葉」、即ちイエス・キリストは十字架において救いを完成して下さいました。

 ヨハネのメッセ−ジに耳を傾けて罪に目覚めて悔い改め、心の道を整えてイエス・キリストを王なるキリストとして受け入れる人は全て救われます。そしてイエス・キリストを王と受け入れた人の人生もまた、この世の評価とは関わりなく意味あるものとして下さると確信できます。私たちもまた神の御言葉を取り次ぐ「声」に徹する人生で良いのです。他に何の功績がなくても主イエス・キリストはその人の人生を意味あるものと評価して下さるからです。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「罪が熟して死を生む」

  マタイによる福音書14:1〜12

 

 今朝与えられた聖書から三通りのメッセ−ジが聞こえてきます。第一はヘロデの誤った結婚観から倫理的な側面のメッセ−ジ、第二は権力者ヘロデに対して死をも辞さず是々非々を貫き殉教したバプテスマのヨハネの生き様を通して教会に与えられた社会的使命、そして第三にバプテスマのヨハネの殉教とキリストの十字架が重なって見える救済論的メッセ−ジです。何れも重要なメッセ−ジですが、今朝、私たちは第三のメッセ−ジに耳を傾け、心を注ぎたいと思います。

 「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:14〜15)と言う聖句がぴったりの事件です。

 

一、欲がはらんで罪を生む

 新約聖書には3人のヘロデの名が見られます。主イエスがお生まれになった頃、ベツレヘムに住む2歳以下の男児皆殺しの命令を発したヘロデ大王(マタイ2:1〜18)、幽閉中の使徒パウロと会見したヘロデ・アグリッパ(使徒言行録25:13〜26:32)はヘロデ大王の孫です。そしてバプテスマのヨハネの首を刎ねたヘロデ・アンティパスはヘロデ大王の子であり、ヘロデ・アグリッパの父です。しかしここではヘロデと呼ぶ場合、今日の主役ヘロデ・アグリッパのことだとご理解下さい。

 ヘロデは異母兄弟のフィリポからその妻ヘロディヤを奪い取って結婚しました。このようなことは聖書の教えに反しています。バプテスマのヨハネは「神を恐れよ」と忠告しました。マタイは「あの女と結婚することは律法で許されていない」と言ったとありますが、並行記事のマルコ6:18によると「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と、より詳しく述べています。好きになったら例え相手が既婚者でも良いというわけには行かないと聖書は教えています。

 「兄弟の妻を犯してはならない。これは兄弟を辱めることになるからである」(レビ記6:16)

 「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(レビ記20:10)

 「兄弟の妻をめとる者は、汚らわしいことをし、兄弟を辱めたのである」(レビ記20:21)

 バプテスマのヨハネは王が終わりの日、神の審きから免れるようにと悔い改めの機会を与えました。しかし王は逆恨みしてこの忠告を退けたばかりか、彼を捕らえて獄に閉じこめてしまいました。欲がはらんで罪を生みました。

 ヘロデの時代から遡ること約1千年、イスラエルの名君ダビデもまた同じ罪を犯しました。隣人の妻を奪い、その罪を隠すために彼女の夫を故意に戦死させてしまいました。しかし神は預言者ナタンを遣わしてその罪を糾弾し、悔い改めを促しました。ここからがダビデとヘロデの分かれ道です。ヘロデは逆恨みしましたが、ダビデは預言者の前に謙り、悔い改めて神に赦しを乞いました。神もまた彼を受け入れ、その罪を赦してくださいました。ダビデはその後たった一度の罪を生涯の教訓として神を畏れ、預言者を通して語られるみ言葉に聴従する姿勢を崩しませんでした(サムエル記下11〜12章)。

 人は罪を犯す生き物です。だから神はこの世に聖書を与え、解き明かしする者を召し出し、それぞれの教会に遣わしておられます。それは悔い改めの機会を与えるためです。終わりの日の審判に耐える者とするためです。永遠の御国に導き入れるためです。

 

二、罪が熟して死を生み出す

 ヘロデ夫妻、特にヘロディヤは自分たちを夫婦と認めないヨハネを恨み、彼を亡き者にする機会を窺っていました(マルコ6:19)。果たしてその思いはヘロデの誕生パーティーの席で明らかになりました。宴もたけなわ、皆が大いに酒食に満足していた頃、突然ヘロディヤの連れ子であるサロメがステージに立って独り踊りを始めました。その見事な舞にヘロデはすっかり感動し、「願うものは何でもやろう」と誓って約束しました。ヘロディヤは好機到来と娘を唆してヨハネの首を所望しました。ヘロデは一瞬戸惑いました。と言うのもヘロデは内心ヨハネに対する畏敬の念を抱き、その教えに傾聴していたのです(マルコ6:20)。しかし結局娘の、と言うよりヘロディヤの申し出を断ることが出来ませんでした。何故彼はヨハネの正しさ、聖さを知りながら彼の首を切り落とすことを承知したのでしょうか。「誓ったことと客の手前」という面子です。確かに律法に「誓ったことは必ず主に果たせ」という1節があります(レビ記19:12、民数記30:3、申命記25:22〜24)。しかし誤った誓いは悔い改めをもって訂正することが許されているのです(レビ記5:4〜6)。だがヘロデはそうしませんでした。神よりも人を恐れた結果、神の僕を斬首してしまいました。罪が熟してついに死を生みました。ヨハネの死は一時の眠りですが、これによってヘロデは神の審きによる永遠の死を招いてしまいました。

 

三、ヨハネの死と主イエスの十字架

 私たちは人の死に出会うと、その人の人生の意味を考えます。死は人生の総決算なのですから。ヘロデとヘロディヤ、そして娘はその後どのような人生であったのか詳細は分かりません。しかし少なく共、ヘロデに関する歴史的資料は悲観的な報告しか与えていません。

 ではバプテスマのヨハネの人生の意味は一体何だったのでしょう。ヘロデの誕生パーティーの座興にヨハネの首が添えられたとは何ともやり切れません。ヨハネの死は犬死にのように思えます。しかしこの世の権力者によって棄てられたヨハネの死は、ユダヤ教指導者に棄てられるイエスの死への道備えとなりました。

 ヨハネの時代を遡る500年も昔にイザヤは「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ』」(マタイ3:3)と宣べ伝える預言者の登場を預言していました。新約聖書の著者はそれをバプテスマのヨハネに該当させています(マタイ3:3、マルコ1:2〜3、ルカ3:3〜6)。彼自身「わたしは荒れ野で叫ぶ『声』だ」と言いました(ヨハネ1:23)。彼は人生の意味は神のメッセ−ジを取り次ぐ「声」に徹することです。使命を果たし終えたら消えゆく「声」ですから、ヘロデの毒牙にかかるとも、それは決して犬死に等ではありません。使命の完了の死なのです。そしてそれは復活の朝を待つ一時の眠りにつく死でありました。

 神の言葉の取り次ぎをする「声」としてのヨハネが死んだとき、その声の内実である「神の言葉」、即ちイエス・キリストは十字架において救いを完成して下さいました。ヨハネのメッセ−ジに耳を傾けて罪に目覚め、悔い改めて、心の道を整えてイエス・キリストを王なるキリストとして受け入れる人は全て救われます。そしてイエス・キリストを王と受け入れた人の人生もまた、この世の評価とは関わりなく意味あるものとして下さると確信できます。私たちもまた神の御言葉を取り次ぐ「声」に徹する人生で良いのです。他に何の功績がなくても主イエス・キリストはその人の人生を意味あるものと評価して下さるからです。

 しかしこういうことにも注意しなければなりません。私たちは聖書に見る偉大な預言者にはなれないかも知れませんが、ヘロデやヘロディヤのようには簡単になれる者であることを。キリスト者であっても自己の義に立ち、或いは面子を重んじる余り、神の僕を迫害する者となりうる恐るべき罪人であることを。私たちは語るよりも聴くことに心掛けなくてはなりません。語るとしても一時主に用いられる「声」であることを忘れてはなりません。主イエス・キリストがこられるとき、私たちは私たちの心の王座を明け渡さなければなりません。そこにこそ私たちの人生を意味あるものとする道が開かれているのです。

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 私たちは今朝ヘロデとその妻の罪に罪を重ねる悲しむべき、いや恐るべき出来事を学びました。しかしよくよく聖書を見ると、あなたはそこにも救いの光、悔い改めの可能性を残していて下さっていたことを改めて理解できます。あなたはあの二人の前に、あなたのみ言葉を取り次ぐ「声」、バプテスマのヨハネを遣わして下さいました。同じように私たちもまた罪に罪を重ねる者ですが、あなたは私たちをこの教会に招き、礼拝へと導き、あなたのみ言葉を取り次ぐ「声」に聴く機会を与えて下さいます。聖書の中である詩人が「わたしは仰せを心に納めています。迷い出ることのないようにしてください」と讃美していますように、いつもあなたのみ言葉で私たちを罪の誘惑からお守り下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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