【主日・成人式礼拝メッセージ】                2001年5月27日

伝統か、神の戒めか

マタイによる福音書15:1-9

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

 「伝統か神の戒めか」が、この聖書テキストのテーマです。伝統に拘ることが偽善なのではありません。伝統で武装しながら、結局は真実を曲げてしまうことが偽善なのです。

 マタイによる福音書4章冒頭にイエス・キリストとサタンの対決の場面が見えます。注意して読むと、サタンも聖書を引き合いにしてイエスを誘惑しています。あの箇所で学びたいことは、サタンとイエスの聖書引用の違いです。イエスは聖書のみ言葉をそのまま単純に用い、その通り実践なさいました。しかしサタンの場合はそこに彼独特の解釈が入り交じっているのです。

 このことから、私たちは聖書を読むとき、自分勝手な解釈を現に慎まなければならないことを学ぶことが出来ます。ただ一冊の翻訳聖書をもって正当な神の言葉と決めつけてしまうことは危険です。出来るだけ色々な翻訳聖書を並列に読み、学ぶことが大事です。或いは私たちの教会学校で参考書として用いている「聖書教育」もその点で絶対とは言えないのです。しっかり読むことは言うまでもないことですが、これ一冊を以て正しい聖書解釈が出来たとは言えません。注解者の解釈を参考にして、しかも出来るだけ多くの翻訳聖書に目を留めて、どこまでも聖書の言葉は聖書自身(関連聖句)に聴くという熱心が大切です。

また、私たちの教会では今教会規則とその細則を改訂、また作成しようとしています。その作業の中で一つ一つの項目とその条文を見直す時、出来るだけ人間の常識ではなく、またこの教会が知らぬ内に作り上げているかも知れない伝統的教会観からさえも自由になって、先ず一つ一つの項目毎に、また条文毎に、面倒がらず、逐一主なる神のみ言葉に聴きながら、作り上げて行きたいものです。

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【メッセージ本文】   

伝統か、神の戒めか

マタイによる福音書15:1-9

 この聖書テキストのテーマです。伝統に拘ることが偽善なのではありません。伝統で武装しながら、結局は真実を曲げてしまうことが偽善なのです。 

 この箇所で取り上げられている「昔の人の言い伝え」とは、モーセを通して与えられた成文律法(モーセ五書)に対して、それを更に細かく規定して、口から口へと伝えられてきた所謂口伝律法のことです。その頃ユダヤには小数政党の混在する中で、サドカイ派とファリサイ派の二大政党が国民をリードしていました。サドカイ派は成文律法にのみ権威を認めていましたが、ファリサイ派は成文律法、口伝律法どちらにも権威を認めていました。ファリサイ派の人々がここで問題にしているのは主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったと言うことですが、この「手を洗う」という規定は成文律法には書いてありません。後から律法学者が実践的に解釈して、口から口へと言い伝えた規定の一つです。これはただ衛生の観念から規定されたものではなく、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)と言うモーセの律法を拡大解釈した結果、宗教的清めのために外出から帰ると念入りに手も足も洗います。そのようにして聖なる者となれと言われた神の教えに少しでも近づこうと努力を怠らなかったのです。この事については10節以下で学ぶことになりますが、幸い今日のファミリー分級で、並行箇所のマルコによる福音書7:14〜30を通して学ぶことになっています。十分に学んで下さい。

 

 ファリサイ派の人々と律法学者たちは、わざわざエルサレムからやってきて「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。」と問いかけました。律法の解釈はエルサレムにいる律法学者の専権事項です。中央の意向を無視して地方の一教師がどうこうできるものではないと言うことでしょう。これに対してイエスもまた「なぜ」と驚きを隠しません。聖書を知らない人ならともかく、あなたがたは聖書のエキスパートを自認する人たちではないか。そのあなたがたが「なぜ」聖書の本当の意味を悟ろうとしないのかという「なぜ」なのです。

 先頃コーランが破り捨てられたというので、イスラム教信徒たちの間で大変な騒ぎになっています。今日コーランも色々な国語に翻訳されていますが、それは正統派のイスラム教にとって、本当はコーランとは言えないのです。アラビヤ語のコーランを以て初めてコーランなのです。そのアラビヤ語のコーランが破り捨てられたのですから、決して容認できない大罪なのです。彼らは言います。「コーランをとるか、命をとるかと言われれば、間違いなくコーランをとる」と。彼らはそれほどコーランに命を懸けているのです。クリスチャンはどうでしょうか。聖書のために命を懸けているでしょうか。

 ユダヤ人にとっても律法は、まさに命を懸けて守るべきものなのです。しかし厳しく自己否定を実践しながら神の求める「聖き生涯」を追求しているファリサイ派の人々であっても、主イエスから見れば矛盾しているのです。それは彼らが「律法を守る」といいながら、いつの間にか二次的な口伝律法、即ち「昔の人の言い伝え」に固執する余り、本筋から逸れてしまっていたからです。そしてそれがいつしか神性にして冒しがたい伝統となって行きました。主イエスはその矛盾をついて、「伝統に固執することで却って神の戒めを破っていることに気が付かないのか」と言い、その一例を挙げて十誡の「第五の戒め」を巡る、彼らの誤解を指摘します。実際多くの心あるラビたちもまた、伝統によって親に対する責任を回避しようとする風潮を嘆き、批判を繰り返してきました。「あなたたちは自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」と主イエスは言われます。

 「偽善者たちよ」とは厳しい言葉です。ご承知の通り「偽善者」のギリシャ語は演技者、俳優という意味から来ているそうです。本当は心が神から離れているのに、言葉だけは敬虔を装うという見事な演技です。主イエスは彼らの嘘を見抜き、イザヤ書29:13から引用して暴きます。ファリサイ派の人たちの、天の父なる神に対する二枚舌、口と心の分離を厳しいお言葉で指摘されました。

 マタイによる福音書4章冒頭にイエス・キリストとサタンの対決の場面が見えます。注意して読むと、サタンも聖書を引き合いにしてイエスを誘惑しています。あの箇所で学びたいことは、サタンとイエスの聖書引用の違いです。イエスは聖書のみ言葉をそのまま単純に用い、その通り実践なさいました。しかしサタンの場合はそこに彼独特の解釈が入り交じっているのです。このことから、私たちは聖書を読むとき、自分勝手な解釈を現に慎むべきことを学ばなければなりません。ただ一冊の翻訳聖書をもって正当な神の言葉と決めつけてしまうことは危険です。出来るだけ色々な翻訳聖書を並列に読み、学ぶことが大事です。或いは私たちの教会学校で参考書として用いている「聖書教育」もその点で絶対とは言えないのです。しっかり読むことは言うまでもないことですが、これ一冊を以て正しい聖書解釈が出来たとは言えません。注解者の解釈を参考にしながら、しかも出来るだけ多くの翻訳聖書に目を留めて、どこまでも聖書の言葉は聖書自身(関連聖句)に聴くという熱心が大切です。

 また、私たちの教会では今教会規則とその細則を改訂、また作成しようとしています。その作業の中で一つ一つの項目とその条文を見直す時、出来るだけ人間の常識ではなく、またこの教会が知らぬ内に作り上げているかも知れない伝統的教会観からさえも自由になって、先ず一つ一つの項目毎に、また条文毎に、面倒がらず、逐一主なる神のみ言葉に聴きながら、作り上げて行きたいものです。

祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

世界中にはそれぞれ固有の歴史と文化を持つ国があります。お互いに学ぶことの多い関係にあることを思うとき、そこにもあなたの創造の美を感じます。

しかし、今朝主イエスの許に集まって来たファリサイ派の人々が伝統という武器を振りかざし、そこに権威の拠り所を見出して満足している姿を通して、私たち教会もいつの間にか同じ過ちを犯しているのではないかと襟を正されます。 この地上には絶対と言えるものは何一つないことを深く心に留めて自分を過信することのないように、互いに謙虚に仕え合うことが出来ますように。また偽善から守られるためにいつも私たちの口と心をあなたのみ言葉によって点検していただき、導きを祈って一日を初め、悔い改めと感謝と希望の内に床につくことが出来ますように。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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