【花の日・主日礼拝メッセージ】 2001年6月10日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚す」と言われます。心は愛の温床ともなり、罪の温床ともなると言うことです。「悪意と殺意」はまさに心の中に沸々と湧いてくる感情です。このような誘惑を一度も感じたことのない人は先ずいないでしょう。私たちが毎朝、毎夕、そして寝る前に聖書を読むことと祈ることが如何に大切かを教えられるみ言葉です。
「姦淫、みだらな行い、盗み」は心に沸き上がる感情を抑えきれずに実行する罪の行為です。このような行いは他人を傷つけると共に自分をも傷つけるものであることを忘れてはなりません。心に沸き上がったこのような感情が既に罪であることを主の弟子であるクリスチャンは忘れてはなりません。瞬間瞬間に悔い改めて神に赦しを乞わねばなりません。
盗みには色々な意味が含まれています。金品を盗むことは勿論ですが、時間を盗む罪があります。愛を盗む罪があります。命を盗む殺人と言う罪もあります。神のものを自分のものと偽って盗む罪があります。自分の生活を優先して献金を惜しむことだと聖書は言います(マラキ3:8〜9)。
「偽証、悪口」は言葉の罪です。裁判で見たまま、聞いたままを正直に証言することは案外難しいものです。賄賂(わいろ)がものを言ったり、事の真偽よりも人情が優先して偽証する人がいます。主イエスからこのような教えを受けて、ファリサイ派の人々は却って主イエスに「つまずき」ました(反発した、或いは腹を立てたという意味)。しかし主は彼らを神が植えなかった雑木であるから「そのままにしておきなさい」と全く気にも留めません。
クリスチャンであっても、時に聖書のイエスから目を逸らして他の魅力溢れる誘惑に心が動くことがあります。教会役員であっても、聖歌隊のメンバーであっても、教会学校の教師であっても、もし人々をイエス・キリスト以外の方へ導くような指導を続けているなら、抜き取られてしまいます。そのような人は最も「危険な案内者」だからです。今静かに主イエスの御前にひざまずき、その誘惑に一瞬でも心が動いたこと、神のことを思わないで、人のことを思った罪を悔い改めましょう。
「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(ヘブライ12:14)とは新約聖書の一節です。このように神は私たちが清くあることを願っておられます。問題はどうすれば清くなることが出来るのでしょうか。今日開かれた聖書からご一緒に学びたいと思います。
一、伝統的清めの儀式
元来ファリサイとは「分離」という意味です。一事が万事生活をチェックして汚れから身を守る努力を自他共に要求するグループ、それがファリサイ派です。彼らは主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしたという噂を聞いて、早速エルサレムから抗議にやってきました。衛生的でないとか、食中毒の心配があるという親切心ではありません。手を洗わずにその身を汚したまま食事をする事は神に対する冒涜だという抗議です。
ユダヤ人は異邦人を汚れた民族とみなしていました。エルサレムとは違ってガリラヤの町は至る所にその異邦人が一緒に生活しています。外出すると、雑踏に紛れて異邦人と袖すり合わないとも限りません。市場には異邦人の店でしか買えない食べ物や日用品が並んでいます。ユダヤ人は出来るだけそう言う店で買い物したくないのですが、やむを得ない時もあります。このようにガリラヤの町に住むユダヤ人にとって、ファリサイ派の言う汚れから身を守る事等容易ではありません。そこでユダヤ人は帰宅すると先ず念入りに手を洗い、身を清めます。ヨハネ2章でカナの婚宴の際「清めに用いる6つの水瓶」のことが書かれていますが、これはその実例です。日本でも仏教のお葬式に行くと清めの塩を手渡されます。人々は帰宅すると家の前でその塩をさっと洋服にふりかけてそれから中に入るのを見かけます。人間の考えることはどこの国も同じようなものです。
二、人を汚すもの
このような伝統的な清めの儀式に真っ向から反対したのが主イエスです。「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚す」と言われました。弟子たちも最初この言葉の意味が分かりませんでした。問題の本質は外から入る食べ物にあるのではなく、心の中から溢れ出てくるものです。心は愛の温床ともなり、罪の温床ともなると言うことです。「悪意と殺意」はまさに心の中に沸々と湧いてくる感情です。このような誘惑を一度も感じたことのない人は先ずいないでしょう。
「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:22)と主イエスは言われました。私たちが毎朝、毎夕、そして寝る前に聖書を読むことと祈ることが如何に大切かを教えられるみ言葉です。
「姦淫、みだらな行い、盗み」は心に沸き上がる感情を抑えきれずに実行する罪の行為です。このような行いは他人を傷つけると共に自分をも傷つけるものであることを忘れてはなりません。「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)と主イエスは言われます。心の中に沸き上がったこのような感情が既に罪であることを主の弟子であるクリスチャンは忘れてはなりません。その瞬間に悔い改めて神に赦しを乞わねばなりません。
盗みには色々な意味が含まれています。金品を盗むことは勿論ですが、時間を盗む罪があります。愛を盗む罪があります。また命を盗む殺人と言う罪もあります。神のものを自分のものと偽って盗む罪があります。何かというと、自分の生活を優先させて献金を惜しむことを指すと聖書は言います(マラキ3:8〜9)。「偽証、悪口」は言葉の罪です。裁判で見たまま、聞いたままを正直に証言することは案外難しいものです。賄賂がものを言ったり、人情が働いて偽証してしまう人がいます。人と人とのもめ事の仲裁をすることは難しいことです。どうしても無意識にどちらか一方に肩入れしてしまう傾向があります。気が付いたら一緒になって第三者の悪口を始めていたと言うことがあります。両方の言い分を冷静に聞く作業を抜きにして、親しい人、仲の良い人、同情したくなる人の言い分だけを聞いてそれを信じてしまうのです。公平な立場で事の真相を知ろうと努力はするのですが、結果的には親しくない人、あまり仲の良くない人、どちらか言うと虫の好かない人を心の中でこの人は悪いと決めつけた言い方になり、話し合いと言うよりは糾弾するような口調になってしまい勝ちです。ましてや証人としての責任を全うすることは難しいものです。
このように心から出てくるものが人を汚すのです。聖書はそのような人の終わりについてこのように言っています。「見よ、その日が来る。炉のように燃える火が。高慢な者、悪を行う者は全てわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」(マラキ3:19)。
三、植えなかった木
マタイ13:57に続いて人々は主イエスにつまずきました。前は故郷の人々がイエスの履歴のことでつまずき、今度はファリサイ派の人々が教えその物につまずいたというのです。他の日本語訳の聖書には「腹を立てた」と訳されています。これの方が分かりよいです。ファリサイ派の人々はイエスの話を聞いて「腹を立てたの」です。主イエスの教えを聞いて、腹を立てる人がいるのです。しかし主は彼らを神が植えなかった雑木であるから「そのままにしておきなさい」と全く気にも留めません。
私はここを読むと、緊張を覚えます。どの牧師もそうだろうと思いますが、自分の召命感を確認させられるみ言葉です。「もしかして、神がお植えにならなかったのに、自分で勝手に牧師だと思い込んで牧師館に住み、牧師室で仕事をしているのではないかと祈りを新たにさせられます。盲目の案内者とはどう言うことでしょうか。イエス・キリストを前にしながら、イエス・キリストと認めることが出来ない人、それなのに少しばかり聖書を知っているからと教えようとしている人です。キリストを知らない聖書解釈者ほど危険な指導者はありません。その人は人々を天国に導いているのではなく、地獄という穴の中に真っ逆様に落ちてしまうからです。
クリスチャンであっても、時に聖書のイエスから目を逸らして他の魅力溢れる誘惑に心が動くことがあります。執事であっても、聖歌隊のメンバーであっても、CS教師であっても、もし人々をイエス・キリスト以外の方へ導くような指導を続けているなら、抜き取られてしまいます。そのような人は最も「危険な案内者」と言うより他ありません。今静かに主の御前にひざまずき、その誘惑に一瞬でも心が動いたこと、神のことを思わず、人のことを思った罪を悔い改めましょう。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
今日は花の日、子どもの日です。天のお父様、私たち大人はいつの間にかこの幼子たちのような純粋さ、あなたを疑う事を知らず一心に思う心が弱くなっていました。いつの間にか単純に聖書を読むことが出来ないで、理屈っぽく考えるようになってしまっていました。
今日教えられた聖書のファリサイ派の姿は実に私たち自身の姿でした。学ぶことの代わりに教えようと言う高慢が却って私たちの霊的成長を遅らせていたことにちっとも気が付いていなかったのです。主よ、どうかお赦し下さい。危険な案内者、盲目の教師ではなく、あなたの謙虚さに学んで心の中からいつも良いものだけを取り出すことが出きる者へと造り替えて下さい。。私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。