【主日礼拝メッセージ】 2001年6月24日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
主イエスがガリラヤ湖畔のある山に登って座っておられると、大勢の人々が体にハンディを持つ家族や知人をイエスの下に連れてきました。この人々は自分たちでさえぎりぎりの生活を強いられている上に、病人を抱えて限界を超えていました。そこで主は彼らの求めに応じてその人々をお癒しになりました。口の利けない人々が話し出しました。体の不自由な人が治りました。足の不自由な人が歩きます。癒された嬉しさで、歩いたと言うよりも走り回ったのではないでしょうか。目の見えない人が見えるようになりました。このような癒しの業を一度に見た群衆の驚きはどれほどのものだったでしょうか。癒された人は勿論、それを目撃した人も皆一斉に驚きの声を上げ、そして「イスラエルの神を讃美」しました。この町は異邦人の町でしたから、彼らは恐らくこれまで色々な神を崇め、占い師や祈祷師を頼って救いを求めましたが、それら全てに裏切られてきました。所が今日は違います。彼らが頼ってきたイエス・キリストは彼らの期待を決して裏切りませんでした。だから彼らは他の神ではなく「イスラエルの神を讃美」しないではいられません。
では今日どうして同じように癒しの奇蹟を見ることは出来ないのでしょうか。私たちの祈りが足りないからでしょうか。癒しの賜物が与えられていないからでしょうか。ある牧師の子どもが「お父さんはどうして癒しの業ができないの?」と、半ば父親を軽蔑するような眼差しで聴いたことがありました。その時この子の父親は静かに言ったそうです。「お父さんは毎週日曜日、講壇から癒しの言葉を取り次いでいるよ。肉体の健康も大事、心が自由にされることも大事だ。でもそれ以上に大事なのは礼拝に集められる人の魂が救われることなのだよ」と答えたそうです。この牧師の言葉をごまかしと思いますか。
奇蹟は何か大きな目を見張るような出来事の中にではなく、私たちが今生かされていること自体奇蹟なのです。私たちのような者が今この教会で礼拝を捧げていること自体奇蹟なのです。私たちがイエス・キリストを救主と信じ、告白できること自体奇蹟なのです。私たちもまた今日の聖書のように「イスラエルの神を讃美」しようではありませんか。
ティルスとシドンへの旅の途中に出会った一人のカナン人母娘に対する奉仕の後、主イエスはそのまま北回りのコースで内陸部にあるガリラヤ湖畔に戻ってこられました。山に登って座って神の国について教えておられると、大勢の人々が体にハンディを持つ家族や知人を連れてきました。日本語では丁寧に「横たえた」と訳していますが、実際は重い荷物を放り投げるようにイエスの足元に置いたのでした。貧しい彼らです。自分たちでさえぎりぎりの生活を強いられている上に、病人を抱えて限界を超えていました。ここでの「横たえた」という表現には彼らのそれほど疲弊した状況が込められていたと言って良いと思います。
NHK総合TVのドラマで「お江戸でござる」と言う番組があります。江戸時代の武家や町人が織りなす様々な人間模様を名優たちがコミカルに演じるドラマですが、最後に江戸風俗漫画家の杉浦日奈子という方がその時代の生活ぶりをより詳しく解説して下さいます。その解説を聞いていると、江戸時代も良いものだなあと思うのですが、騒然とした幕末の頃、1859年に来日した宣教師ヘボン博士が見た横浜の風景は決してのどかなものではなかったそうです。「植村正久とその時代」という本の中からその一節を紹介しますと、「町を歩くと三人に一人は必ず天然痘の後遺症を持っていた。天然痘は絶えることなく時々大流行を来す。盲人の多いのは普通であった。腫れ物だらけの頭を持つ人は至る所に見受けられる。更に結核は猛烈な勢いで人々を苦しめ続けている」とあります。今から僅か150年前のこれが日本庶民の平均的風景であったというのです。ましてや2000年も昔、医学の水準が深刻な病状について行けなかったのは当然のことです。マルコ5:25以下に長血の女性の物語が書かれていますが、彼女はイエスの御許に来るまで「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(マルコ5:26)と言うことでした。この地方もやはり異邦人が数多く住む町ですから、彼らが当時の医者よりも、まじないや祈祷師に望みを置いたとしても不思議ではありません。多分彼らにとってイエスも魔術師の一人に見えたのでしょう。
この有様をご覧になった主は彼らの求めに応じてその一人びとりをお癒しになりました。この箇所は新聞のコラムのように短い記事ですが、内容は豊で深みがあります。そして生き生きしています。口の利けない人々が話し出しました。勿論耳は聞こえるのに声だけが出ない人がいます。けれども耳も聞こえなかった人がその耳も癒されたとしたら、彼の耳に一斉に飛び込んできた様々な音を彼らはどのように感じたでしょうか。そしてどんな言葉が彼らの口から出てきたのでしょう。四国で地域の手話サークルに所属していたとき、多くの聾唖の方々と親しくなりました。そして分かったことは、健聴者は彼らを一口で聾唖者と言いますが、例えば腎臓や肝臓を病む人でもその症状は人それぞれです。同じように耳が聞こえない人の状態も決して一つではありません。全く音というものを知らない人もいれば、耳の中の音、所謂四六時中耳鳴りは聞こえるのに外からの音は全く聞こえない人もいます。極度の難聴の人もいます。その外体の不自由な人が治りました。どんな風に体が不自由だったのでしょう。足の不自由な人が歩きます。きっと長年の夢が叶えられた嬉しさで、歩いたと言うよりも走り回ったのではないでしょうか。目の見えない人が見えるようになりました。この人は生まれついて目が見えなかったのでしょうか。それならこの人にとって初めて見る景色はどんなものだったでしょうか。中途失明者であれば、久しぶりに見る世の中はこの人にとってどれくらい変化していたのでしょうか。そしてこのような癒しの業を一度に見た群衆の驚きはどれほどのものだったでしょうか。癒された人は勿論、それを目撃した人も皆一斉に驚きの声を上げ、そして「イスラエルの神を讃美」しました。異邦人はこれまで色々な神を崇め、占い師や祈祷師を頼って救いを求めましたが、それら全てに裏切られてきました。所が今日は違います。彼らが頼ってきたイエス・キリストは彼らの期待を決して裏切りませんでした。だから彼らは他の神ではなく「イスラエルの神を讃美」しないではいられません。
では今日どうして同じように癒しの奇蹟を見ることは出来ないのでしょうか。全能の主イエス・キリストに出来て、私たちにはどうして出来ないのでしょうか。私たちの祈りが足りないからでしょうか。癒しの賜物が与えられていないからでしょうか。昔私の子どもの頃、真しやかにあらゆる病気をたちまち癒すことが出来るとか、特別な食事で病気知らずになったとか宣伝している宗教団体がありました。最近もこれに似たことを言うグループが一時世間の注目を浴びました。ある牧師の子どもが「お父さんはどうして癒しの業ができないの?」と、半ば父親を軽蔑するような眼差しで聴いたことがありました。その時この子の父親で牧師先生は静かに言ったそうです。「お父さんは毎週日曜日、講壇から癒しの言葉を取り次いでいるよ。肉体の健康も大事、心が自由にされることも大事だ。でもそれ以上に大事なのは礼拝に集められる人の魂が救われることなのだよ」と答えたそうです。
この牧師の言葉をごまかしと思いますか。主イエス・キリストは主の弟子たち、教会のクリスチャンの中に様々な賜物を与えておられます。そうした中である人は肉体の健康を守るための医者として働かせます。ある人は心の癒しのための働き人として働かせます。そしてある人を牧師、教師、伝道者として霊的な解放の業のために用いて下さるのです。主は今も心とからだと魂の医者をこの世に与えて、その一人ひとりの内にあって、その一人ひとりと共に働いて下さっているのです。奇蹟は何か大きな目を見張るような出来事の中にではなく、私たちが今生かされていること自体奇蹟なのです。私たちのような者が今この教会で礼拝を捧げていること自体奇蹟なのです。私たちがイエス・キリストを救主と信じ、告白できること自体奇蹟なのです。私たちもまた今日の聖書のように「イスラエルの神を讃美」しようではありませんか。
今日から神学校週間に入ります。神学校はそこで学ぶ者にこの世で言う何の免許も与えません。しかしこの世で最も大切な魂の漁師として諸教会に遣わします。私たちは彼らに敬意を表して、彼らの学びと将来の働きのために祈りましょう。 祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
この世には多くの病める人がいます。体や心が傷ついている人がいます。自分一人でも生きて行くことが大変なのに、こうした人を家族に抱えて苦しんでいる人がいます。みんながみんなあなたの癒しを必要としています。どうかこの人たちにあなたでしか与えることの出来ない平安と希望と将来を与えて上げて下さい。この教会の礼拝があなたの奇蹟を奇蹟として確信できるときとして用いて下さい。ここにいる人と、ここにいる人が抱えている家族の問題の全てに解決を与えて下さい。そしてこれらの人々に、他の神ではなく、「イスラエルの神を讃美」する唇を与えて下さい。
今日から神学校週間に入ります。私たちの教会からマウマウタン兄を西南学院大学神学部に送り出しました。マウマウタン兄弟を初め、全ての神学校、そして教職員の上にあなたの祝福を満たして下さいますように。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。