【主日礼拝メッセージ】 2001年7月1日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
使徒言行録8章の出来事がきっかけでエチオピアに福音が伝わり、今ではほとんどがクリスチャンの国になっているそうです。最近あるTVの番組でこの国のクリスマス燭火礼拝の模様が紹介されていました。一年間一生懸命働いて貯めたお金で遠い地方から山深い教会に集まって来ます。この国のクリスマスは1月6日です。異教の匂いのする12月25日に比べると、最も信憑性の高い日だと言われています。早く到着した人はこの日を待って静かに祈り備えます。貧しい人々が殆どのこの群衆は、しかし誰一人飢えている人はいません。食べ物の準備が出来ている人が準備出来なかった人と分かち合うからです。こうして彼らは何日もクリスマスを待ち望みます。
いよいよクリスマスの当日、と言っても真夜中から礼拝は始まります。あちこちから手作りのろうそくの灯が点火されて行きます。降誕物語を劇風に演じるメッセ−ジがあり、言葉のメッセ−ジがあり、讃美があり、祈りが捧げられます。最後に牧師の祝祷を聞いたときは夜も白々明け初めていました。一同は互いに主イエス・キリストのお生まれを喜び、祝う抱擁を交わします。TVを見ているこちらの方が感動で胸が熱くなりました。翌朝、お互いに祝福しあいながら人々はまたそれぞれ家路につくのです。また来年のこの日、再会を約束し合って。
彼らの姿こそ主の御許に集められた4千人の姿です。このパン裂きがなかったら、そして使徒言行録8章の出来事がなかったら、エチオピア人を初め、異邦人は主イエス・キリストの救いに与ることは出来なかったのです。
主イエスが群衆をご覧になってかわいそうだと思われたのは、彼らがお腹の空いていることさえ忘れてみ言葉に聴き入っていたからです。このままそれぞれの生活に送り出したら、途中で弱り切ってしまうと、深い同情を示されました。主は彼らの中に「明日のことを思い悩むな」という御言葉(マタイ6:34)が根付いている事実を目の当たりになさったからです。しかし主は現実のことにも無頓着な方ではありません。主イエスはひたすら主のみ言葉に聴き入る人々の今日、明日、明後日を見ていて下さる方です。主は「何よりもまず、神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)者の為には、それと共に今日−明日−明後日と続く地上の人生の為に必要なものを「加えて」供給して下さる方であることをこの物語から学ぶことが出来ます。礼拝に呼び集められるとはこの主イエス・キリストに出会うことなのです。あなたは毎週このような恵み深い主に出会うチャンスが与えられていることを忘れないでください。そして出会って下さい。
京都では訪ねてきた人、それが初対面の人であっても「まあぶぶづけでもどうどすえ?」と一声かけます。「お茶漬けでも如何ですか?」という意味ですが、これを額面通りに受け取って「それではお言葉に甘えて」とずかずか家に上がり込もうものなら、その後の人間関係を壊すことになると言われます。これは歓迎の言葉ではなく、「そろそろお帰り下さい」というシグナルだと京都に長く住む牧師から聞いたことがあります。所変わって沖縄には「めんそーれ」と言う挨拶言葉があります。「どうぞ召し上がれ」という意味だそうです。この言葉はたとえ初対面の人であっても額面通りに受け取って良いそうです。
今日与えられた御言葉はまさに主イエスからの「めんそーれ」と言う招きの物語です。既に14:13〜21で学んだ5千人への給食物語と余りにも似ています。ある人は、これはその焼き直しの物語だと言いますが、よく見るとかなりの部分でこれは独立した奇蹟の物語であることが分かります。私たちもはしょらないで丁寧に読んでゆくことにしましょう。
14章の5千人は殆どがユダヤ人で、場所もガリラヤ湖西岸の豊かな草の上に座っています。季節は春の一時だと言うことが分かります。あれから数ヶ月、季節は長く厳しい夏に入っています。ここは異邦人の多く住む町外れで、人々は草のない荒れ地の上に座らなければなりません。その上14章ではその日の夕暮れの出来事ですが、ここでは3日間何も食べるものがありません。この3日間群衆は時の経つのも忘れて微動だにせず主イエスの口から語られるみ言葉に聴き入っていたのです。こんな事は今の時代考えられない光景です。一つひとつのお話に感動し、笑い、泣き、時には手を打って感心し、話の中の登場人物と自分が重なったときにはウーンと言葉にならない声を発する。夜になるとその場に転がって雑魚寝する、こうしていつの間にか3日目を迎えたのです。何よりも4千人のこの熱心さが主の奇蹟を呼んだと言うことが出来るのではないでしょうか。
使徒言行録8章の出来事がきっかけでエチオピアに福音が伝わり、今ではほとんどがクリスチャンの国になっているそうです。最近あるTVの番組でこの国のクリスマス燭火礼拝の模様が紹介されていました。一年間一生懸命働いて貯めたお金で遠い地方から山深い教会に集まって来ます。この国のクリスマスは1月6日です。異教の匂いのする12月25日に比べると、最も信憑性の高い日だと言われています。早く到着した人はこの日を待って静かに祈り備えます。食べ物の準備が出来ている人は出来なかった人と分かち合います。貧しい人々が殆どのこの群衆は、しかし誰一人飢えている人はいません。食べ物の準備が出来ている人が準備出来なかった人と分かち合うからです。こうして彼らは何日もクリスマスを待ち望みます。いよいよクリスマスの当日、と言っても真夜中から礼拝は始まります。あちこちから手作りのろうそくの灯が点火されて行きます。キリストのお生まれを劇風に演じるメッセ−ジがあり、言葉のメッセ−ジがあります。讃美があり、祈りが捧げられます。最後に牧師の祝祷を聞いたときは夜も白々明け初めていました。一同は互いに主イエス・キリストのお生まれを喜び、祝う抱擁を交わします。TVを見ているこちらの方が感動で胸が熱くなりました。翌朝、お互いに祝福しあいながら人々はまたそれぞれ家路につくのです。また来年のこの日、再会を約束し合って。
彼らの姿こそ主の御許に集められた4千人の姿です。この物語が14章に続いて紹介されているのは、その対象者のほとんどが異邦人であったということに意味があるからです。ここでのパン裂きがなかったら、そして使徒言行録8章の出来事がなかったら、エチオピア人を初め、異邦人は主イエス・キリストの救いに与ることは出来なかったのです。
これ以後主イエス・キリストの教会は伝道集会と共に聖会とか修養会、私たちの教会ではキャンプと呼んでいますが、このような集まりを大切にするようになりました。一年に1回時を忘れて御言葉に静かに聴き入る時を持ち、信仰の養いをするのです。しかし最近どこの教会でも研修会や修養会への参加が少ないと聞きます。その原因、或いは理由はどこにあるのでしょうか。会場の問題でしょうか。企画やプログラムに魅力がないからでしょうか。牧師や講師の話が詰まらないからでしょうか。この夏私たちの教会が企画しているキャンプはどうでしょうか。会場も企画もプログラムも皆の叡智を結集して素晴らしいキャンプにして行きたいものです。牧師も発題者一人ひとりも詰まらない話にならないように十分な準備をして臨まなければと心引き締めております。しかし、参加者一人ひとりが受け身の参加意識に甘んじている間は会場がどこであっても、どんな企画とプログラムをもってしても、また誰がお話ししてもその研修会、修養会、キャンプは成功しないでしょう。人間を中心に考えるキャンプは成功しません。どんなに工夫しても誰か一人はきっと詰まらないキャンプだったと感想を漏らすに違いありません。主を中心に企画を立て、プログラムを作り、お話に耳を傾けることが大事です。フィリピ2:5(新約聖書 p.363)に「それはキリスト・イエスにも見られるものです」という1節がありますが、同じ箇所を口語訳聖書で読むと「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」と訳されています。更に文語訳聖書では「キリスト・イエスの心を心とせよ」となっています。積極的な参加とは、スタッフが何をしてくれるかを待ち、傍観することではありません。ましてや評論家や批評家のように、あれこれ足らないところを責めることではありません。このキャンプの成功のために私に出来ることは何かと主に尋ね求めて下さい。きっとあるはずです。体を動かすことの出来ない人は祈ることです。非難することではなく感謝することです。
私たちは主の奇蹟の御業を14章に続いてここでも見ることが出来ます。主が群衆をご覧になってかわいそうだと思われたのは、彼らが誰一人、この世のことに思いを寄せないで、お腹が空いていることさえ忘れてみ言葉に聴き入っていたからです。このままそれぞれの生活に送り出したら、途中で弱り切ってしまうと、深い同情を示されました。主は彼らの中に「明日のことを思い悩むな」という御言葉(マタイ6:34)が根付いている事実を目の当たりになさったからです。しかし主は現実のことにも無頓着な方ではありません。ひたすら主のみ言葉に聴き入る人々の今日、明日、明後日を見ていて下さる方なのだと言うことを確信できる主の御心をここに認めることが出来ます。主は「何よりもまず、神の国と神の義を求める」(マタイ6:33)者の為には、それと共に今日−明日−明後日と続く地上の人生において、必要なものを「加えて」供給して下さる方であることをこの物語から認めることが出来ます。礼拝に呼び集められるとはこの主イエス・キリストに出会うことなのです。あなたは毎週このような恵み深い主に出会うチャンスを与えられていることを忘れないでください。そして出会って下さい。
祈りましょう。
天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。
私たちはマタイによる福音書15章を通して手足が汚れることよりも心が汚れることに注意しなければならないことを学びました。そしてユダヤ人が汚れたものと先入観を抱く異邦人の中に、ユダヤ人にも見られない謙った心の人、一心に主を求めてやまないカナン人の女性、イスラエルの神を讃美する信仰の人、何日間も食べることさえ忘れて熱心にみ言葉に聴き入っている人々の存在を学びました。今日恵みになれて感謝することを忘れがちなクリスチャンである私たちに代わって、熱心に主を求める求道者の姿を見ます。ユダヤ人のクリスチャンマタイが異邦人の素朴な求道心に学んでこれを書き留めたように、私たちも初めの愛に帰って、求道者の姿からもっと謙ること、もっと御言葉を熱心にしたい求める者とならせて下さい。
私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。