【主日礼拝メッセージ】                                2001年7月8日

 「ヨ ナ の し る し」

 マタイによる福音書16章1-4節 

 

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】

 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエスは言われました。ここで言う「しるし」とは「証拠となる奇蹟」と理解して下さい。ファリサイ派とサドカイ派の人々はイエスが何者であるか知りたがっていました。人々の中にはこの方こそ待ち望んでいたメシア、キリストではないかと噂する者もありました。そこで彼らは主のもとにきて、直にその証拠を得ようとしたのです。但し彼らの期待する証拠とは、「ほら、奇蹟らしいことは何も出来ない。やはり彼は唯の人間だったのだ」という証拠です。つまり試そうとしたのです。

 ファリサイ派は世俗のことに関心を持たず、ひたすら個人的清めを求めながら、メシア/キリストを待ち望むグループです。つまり彼らは余りにこの世から遊離した宗教団体です。これに対してサドカイ派は祭司・貴族階級で占められ、常に政権与党の立場を貫き、富と権力を維持するために進んでローマ帝国に奉仕しました。つまりサドカイ派は來生を信じない、余りにも現世的宗教団体でした。この相反するファリサイ派の人々とサドカイ派の人々が主イエスのもとに来て、何か天からのしるし、即ち奇蹟を行うことが出来るか試そうとしました。敵意というものは、しばしば正反対の立場の者を結ぶ力となります。イエスに反対し、イエスを殺そうという点では一致していました。

 そこで主イエスは旧約聖書ヨナ書を通して彼らの問いかけにお答えになりました。神はヨナに対して罪深いニネベの町へ行き、神の審判を告げて警告するようにと命じましたが、ヨナはそれを拒み、正反対の国へと旅立ちました。しかし神は不思議な方法でヨナを海に投げ込み、大きな魚の腹の中に閉じこめました。ヨナは魚の腹の中でこれまでの罪を深く悔い改め、献身しました。救われたヨナは素直に神の命に従い、ニネベの町に入り、時代の見張り人として、また預言者としての召命に堅く立ち、その使命を果たしました。このように主は御自分をヨナと重ねてヨナのしるしを悟らない限り、わたしを知ることは出来ないと言われたのです。

 主イエスが言われるヨナのしるしとはヨナの宣教と大魚の中の出来事です。ヨナは罪深いニネベの町に行き、罪を責め、神の審きを警告しました。主はこの世に来てその罪を責め、救いの道、福音を語り聴かせます。

 ヨナは大きな魚のお腹で3日を過ごしましたが、奇跡的に救われました。主イエスはファリサイ派やサドカイ派の人々の手で十字架に上げられ、死んで墓に葬られますが、3日目に復活されるのです。

 主イエスの宣教が聞こえてくるとき、その日はヨナにも優って約束の民に対する神の憐れみが成就するときです。主が甦られるとき、その日はヨナの大魚から吐き出されたときにも優って、世界が救われるときなのです。これに優るしるし、奇蹟はありません。

 

 

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

  「ヨ ナ の し る し」

 マタイによる福音書16章1-4節 

 

 NHK総合TV朝の連続ドラマ、「ちゅらさん」に登場するおばばは不思議な予知能力があって、「うん?来るよ、来るよ、誰々から電話が掛かってくるよ」と言うが早いか、本当にその人から電話が掛かってきます。私の母方の大祖母はもっとすごい人で、ある日の夕食後、「ああ美味しかった。もう明日からご飯は要らないからね」と言って自分の部屋に戻って行きました。家族は冗談好きの大祖母の言葉をいつものユーモアと理解して大笑いして聞き流していました。所が次の朝彼女がいつまでも起きてこないので、ひ祖母が呼びに行きますと、冷たくなっていたと言うことです。

 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエスは言われました。ここで言う「しるし」とは「証拠となる奇蹟」と理解して下さい。ファリサイ派とサドカイ派の人々はイエスが何者であるか知りたがっていました。人々の中にはこの方こそ待ち望んでいたメシア、キリストではないかと噂する者もありました。そこで彼らは主のもとにきて、直にその証拠を得ようとしたのです。但し彼らの期待する証拠とは、「ほら、奇蹟らしいことは何も出来ない。やはり彼は唯の人間だったのだ」という証拠です。つまり試そうとしたのです。

 

 このようにファリサイ派の人々とサドカイ派の人々は主イエスのもとに来て、何か天からのしるし、即ち奇蹟を行うことが出来るかテストしようとしました。敵意というものは、しばしば正反対の立場の者を結ぶ力となります。ファリサイ派とサドカイ派は、聖書理解において、主義主張において全く相反する立場のグループです。

 ファリサイ派は旧約聖書39巻を正典として認め、その外口伝律法及び律法学者の律法を細部に亘って守ることを生活の指針としていました。また天使の存在と体の甦りを信じ、メシア、キリストを待ち望んでいました。これに対してサドカイ派は旧約聖書のモーセ五書のみを正典として認め、天使もからだの甦りも否定し、メシアを待望していませんでした。

 更にファリサイ派は世俗のことに関心を持たず、支持政党を持ちませんが、宗教的原則を乱さない限りどのような政府をも受け入れ、自らもサンヒドリン議会の構成メンバーとして影響力を行使していました。これに対してサドカイ派は祭司・貴族階級で占められ、常に政権与党の立場を貫き、富と権力を維持するために進んでローマ帝国に奉仕しました。

このように両者は何もかも異なるグループですが、そしてその為に大抵は反目し合っていましたが、イエスに反対し、イエスを殺そうという点で一致していました。

 この両者が今主イエスに対してしるしを求めます。イエスは逆に「空の雲行きで天候を見分けることが出来るのに、今がどのような時か、時代のしるしを見分けることが出来ないのか」と問い返されます。「見張りは叫んだ。『わが主よ、見張り台にわたしは一日中立ちつくし歩哨の部署にわたしは夜通しついていた』」(イザヤ書21:8 p.1090)とあるように、時代を見分ける見張り人の務めは本来ファリサイ派やサドカイ派の仕事です。彼らは聖書によって天からのしるしが何であるかも悟るべきでした。しかし互いに反目し、主導権争いに明け暮れていましたから、その務めを果たせていません。

 そこで主イエスはヨナの物語を通して彼らの問いかけにお答えになりました。神はヨナに対して罪深いニネベの町へ行き、神の審判を告げて警告するようにと命じましたが、ヨナはそれを拒み、正反対の国へと旅立ちました。しかし神は不思議な方法でヨナを海に投げ込み、大きな魚の腹の中に閉じこめました。ヨナは魚の腹の中でこれまでの罪を深く悔い改めて献身しました。救われたヨナは、今度こそ素直に神の命に従い、ニネベの町に入り、時代の見張り人として、また預言者としての召命に堅く立ち、その使命を果たしました。このように主は御自分をヨナと重ねてヨナのしるしを悟らない限り、わたしを知ることは出来ないと言われたのです。

 主イエスが言われるヨナのしるしとはヨナの宣教と大魚の中の出来事です。ヨナは罪深いニネベの町に行き、罪を責め、神の審きを警告しました。主イエスはこの世に来てその罪を責め、救いの道、福音を語り聴かせます。

 ヨナは大きな魚のお腹で3日を過ごしましたが、奇跡的に救われました。主イエスはファリサイ派やサドカイ派の人々の手で十字架に上げられ、死んで墓に葬られますが、3日目に復活されるのです。

 主イエスの宣教が聞こえてくるとき、その日はヨナにも優って約束の民に対する神の憐れみが成就するときです。主が甦られるとき、その日はヨナの大魚から吐き出されたときにも優って、世界が救われるときなのです。これに優るしるし、奇蹟はありません。ファリサイ派もサドカイ派も聖書の中にイエス・キリストが明確に証されていることを読みとることが出来ません。イエス・キリストが今目の前におられることは彼らにとって大いなる恵みなのです。しかし彼らは最後までイエス・キリストを敵視することをやめませんでした。愚かなことです。

 今はどのようなときでしょうか。ヨナにも優ってイエスのなさったしるしの意味は何でしょうか。それはこの世は終わりの時、神の審判の日に向かって急いでいるという事です。 

 小泉政権が発足して約3ヶ月、80%以上の支持を背景に少しずつ政策が明らかになってきました。歓迎できるものとそうでないものもまた見えてきました。中には政策と言うよりも彼の個人的心情として何が何でも推進したい靖国神社への総理大臣としての参拝の問題があります。彼にとっては憲法上の制約は見えていません。とにかく行きたいの一言です。ひるまず、恐れず、諦めずこの事にこだわり続けています。しかしよく考えてみたいと思います。靖国はどう見ても平和憲法を掲げて行こうとする日本の在り方とマッチしません。政策ではなく、感情論だとばかり言っておれない小泉氏のしたたかな憲法改正への計算が窺えます。警戒を怠ってはなりません。独裁者は世論の高い支持率を背景に生まれ、それを利用しようとする取り巻きによって育てられて行くと言うことを。

 教会はこのようなまやかしに無関心であってはなりません。教会はどこまでも聖書に立ち、キリストの御心を追い求める故に、時代の見張り人でなければなりません。天からのしるしに敏感でなければなりません。「イエスは主」という信仰の告白に挑戦してくる勢力に対して教会ははっきり「ノー!」と言える者でなければなりません。この国の為政者が誤った道を行かないように、平和を希求すると国際的に約束しておきながら、憲法の精神、いや神の御心を踏みにじるような矛盾に教会は無関心であってはならないのです。政教分離とは政治に無関心であれという意味ではありません。「教会のしおり」のp.3で私たちの教会はその信仰告白の中で、「国の政治機構は神の定めたもうものであって、人類社会の福祉秩序のために立てられたものであるからそのために祈り、良心の唯一の主、王の王たるキリストの御旨に反しない限りこれに従うべきであると信じます」と宣言しています。国家がキリストの御旨に反するときは従ってはならないのです。「ノー」と言わなければなりません。靖国は王の王であるキリストに挑戦する偶像宗教なのです。50年前のように「神社は宗教にあらず。超越したものである」と言わせてはなりません。何が何でもこれに向かって最敬礼をさせる動きに対して私たちは自分の魂を売ってはならないのです。

私たちはファリサイ派のように政治に無関心で、個人的な清めだけを求める群れではありません。また私たちはサドカイ派のように権力におもねり、良心の主が神の御子イエスであると言う事実をなおざりにする群れではありません。常に御言葉の光によって御国の見張り人としての使命に立つ群れなのです。  祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 私たちは今朝主の御前に立つファリサイ派やサドカイ派の姿を通して何が善であり、何が神の御心に適う事であるかを学ぶことが出来ました。私たちの周りには反キリストの力で満ちています。にもかかわらず教会はともすれば独善的で、しかも内向きになり勝ちです。来るを待つ伝道であり、内なる交わりのみを良しとする傾向があります。この国の教会が、悪しき権力に対して継承を鳴らし続ける見張りの任務に忠実であることが出来ますようにお導き下さい。私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。

 


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