【主日礼拝メッセージ】                           2001年7月22日

わたしを誰というか

  マタイによる福音書16:13-20

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 主イエスは弟子たちに「世間はわたしのことをどのように評価しているのか」と問いかけました。弟子たちはとても高い評価を下していますと答えました。そこで主は続けて「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。私たちはいつも「あなたはわたしを誰というか」と主に問われているのです。私たちの信仰の中身が問われる瞬間です。ある人は「イエスさまは私の友達だ」と言います。またある人は「イエスさまは私を慰めて下さる方だ」と言います。別の人は「イエスさまは私が困っているときすぐに助けて下さる方だ」という人もいるでしょう。その通りです。詩編を読むと、実に主は私たちをどんなに深く愛して下さっているか思いを込めて歌っています。でも、ここでの質問に対しては、以上の答えで十分とは言えません。ましてや「世間ではこう言っています」と言うような評論家のような答えなど論外です。

 ペトロはすぐにはっきりと、イエスさまに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と応答しました。99%が「皇帝は主」とローマに膝を屈めている町、誰が聞き耳を立てているかも知れないその所で、ペトロは「イエスさまこそ主」と信仰の応答をしたのです。これこそ主が待っておられた答えです。

 主イエスはとても喜ばれました。最初は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言い、続いて「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と。この17節で主は弟子を祝福する呼びかけの固有名詞をわざわざ言い換えています。「バル」とは「−の子」という意味がありますから、ヨナの子シモンというのが彼の本名です。主に出会うまでの名前の彼が、イエス・キリストに対して正しい信仰の告白をしたことを受けて、「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と新しい名前を彼にプレゼントして下さったのです。これはお飾り的なクリスチャン ネーム以上の意味があります。ペトロとは「岩」という意味があるそうです。生まれつきのシモンは古き罪人の一人でした。 しかし主に出会い、信仰に導かれてはっきりとイエスが何者であるかを告白したとき、信仰による新生者、岩の如く揺るぎない神の命に生きる人として新しく生まれました。

 教会とは何でしょうか。イエスさまをロマンチックに考えることから解き放たれて、彼が何者であるかを正しく告白する新生を経験した者の群れなのです。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

わたしを誰というか

マタイによる福音書16:13-20

 

 先週天に召された鈴木洋男兄の納棺式、前夜式、葬りの礼拝式、そして火葬前式を執り行いました。私がこの教会に来て3人目の葬儀です。人間的には悲しくもあり、寂しくもあります。ある人に打ち明けたことですが、牧師として一番心打たれるのは、火葬場で遺骨が釜から引き出されて骨壺に納められるときです。遺骨がショックだというのではありません。故人は既に肉体の束縛、罪から完全に贖われて父なる神の御前に慰められ、憩いを与えられているわけですから、そのことを悲しんでいるわけでもありません。私が遺骨を見て心打たれるのは、これからこの遺骨を埋葬する遺族が経験する様々な試練を思うからです。経済的にも精神的にも今までと違う生活が待っているかも知れません。そのことを思って心打たれます。そして切に祈りへと導かれるのです。このご遺族を本当の意味で支えることの出来る方は全能の主である三位一体の神をおいて他にありません。神は鈴木菊枝姉と美子姉をこの教会に委ねておられます。最善を主に献げる心でご遺族に仕えて参りましょう。そこで今朝もう一度教会とは何かを学びましょう。

 

一、新生者の群れ

 主イエスは弟子たちに「世間はわたしのことをどのように評価しているのか」と問いかけました。弟子たちはとても高い評価を下していますとイエスさまにヨイショしました。そこで主は続けて「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになりました。私たちはいつも「あなたはわたしを誰というか」と主に問われているのです。私たちの信仰の中身が問われる瞬間です。ある人は「イエスさまは私の友達だ」と言います。またある人は「イエスさまは私を慰めて下さる方だ」と言います。別の人は「イエスさまは私が困っているときすぐに助けて下さる方だ」という人もいるでしょう。その通りです。詩編を読むと、実に主は私たちをどんなに深く愛して下さっているか思いを込めて歌っています。でも、ここでの質問に対しては、以上の答えで十分とは言えません。ましてや「世間ではこう言っています」と言うような評論家のような答えなど論外です。

 ここはガリラヤの領主フィリポが自分の名前と共に、ローマの皇帝カイザルにあやかって付けた町の名前です。この町でも皇帝の支配は絶対で、皇帝はすっかり神格化されていました。勿論敬虔なファリサイ派やユダヤの民衆は心からそのように信じていたわけではありません。しかし表向きは妥協して「ハイル・カイザル!」と呼ばざるを得ません。そのような保守的な地方で敢えて主は「わたしを誰というか」と問われたのです。さすがの弟子たちも一瞬緊張したことでしょう。しかしペトロはすぐにはっきりと、イエスさまに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と応答しました。99%が「皇帝は主」とローマに膝を屈めている町、誰が聞き耳を立てているかも知れないその所で、ペトロはしかし「イエスさまこそ主」と信仰の応答をしたのです。これこそ主が待っておられた答えです。

 主イエスはとても喜ばれました。最初は「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言い、続いて「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と。この17節で主は弟子を祝福する呼びかけの固有名詞をわざわざ言い換えています。バルは「−の子」という意味がありますから、ヨナの子シモンというのが彼の本名です。主に出会うまでの名前の彼が、イエス・キリストに対して正しい信仰の告白をしたことを受けて、「わたしも言っておく。あなたはペトロ」と新しい名前を彼にプレゼントして下さったのです。ペトロとは「岩」という意味があるそうです。生まれつきのシモンは古き罪人の一人でした。 しかし主に出会い、信仰に導かれてはっきりとイエスが何者であるかを告白したとき、信仰による新しい人、岩の如く揺るぎない神の命に生きる人として新しく生まれました。教会とは何でしょうか。イエスさまをロマンチックに考えることから解き放たれて、イエス・キリストが何者であるかを正しく告白する新生を経験した者の群れなのです。

 

二、聖別された群れ

 第二に教会とは聖別された群れでなければなりません。主イエスは「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。「わたしの」と言われたことに注意しましょう。「教会の約束」の中に、「主の日の礼拝、そのほか教会の諸集会につとめて出席し、教会の交わりのきよくなること、栄えることを祈ります。…教会は人によってなったものではなく、神によって成ったものと信じます」と提言されています。教会を人間の頭脳や経済力や技術力、組織力の上に建てるものだと考えるとき、その時すでに教会は教会でなくなり、人間のものになってしまいます。それは間違いです。教会は誰のものでもありません。「わたしのもの」と言われる方のものでなければなりません。

 バル・ヨナシモンに向かって、「あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。ここで言う「ペトロ」を固有名詞のペトロと受けとめると、イエス・キリストの御心から外れてしまいます。ここで言うペトロはローマ・カトリックが支配するローマ法王の座ではありません。これはいかなる地上の権力の前にも膝を屈めることのない岩の如く揺るぎない信仰の共同体、聖別された全ての教会のことを指して言われているのだと理解して下さい。今私はキリストの教会を「聖別された共同体」と言いました。「聖別された教会」とはどう言う教会でしょうか。それは道徳的、倫理的に清められた教会という意味ではありません。それらを遙かに超越した群れのことです。即ち「イエス・キリストのものとされた教会」という意味です。

 

三、栄光の希望に溢れる教会

 第三に教会とはこの世にあって単なる望みに一喜一憂する群れではなく、永遠の希望に燃える群れです。私たちはこの世にあってこの世の人よりも「ましな人間」ではありません。この世の人々とは「全く異なった次元に生きている群れ」なのです。それはこの世の人々がこの世から決して得られないものを私たちは与えられているからです。この世が持たず、私たちに与えられているものとは何でしょうか。黄泉に下る鍵と、天の国に至る鍵です。天上の事柄をこの地上で解くことが許される鍵を私たちは手にしているのです。だから私たちは死者を葬る礼拝式をささげるのです。この式によって神は然るべき所の位置を死者にお与えになります。

 私たちは何故礼拝を捧げるのでしょうか。礼拝はイエス・キリストが十字架を通して罪の贖いを成し遂げ、復活によって永遠の命を与え、世の終わりに神の御国へと引き上げて下さる栄光の主であることを告白し、三位一体の神を讃美し、栄光を帰するときです。礼拝は私が個人的に恵まれることで満ち足りたと思ってはなりません。天の父が崇められ、神が栄光をお受け下さることを願うものでなければなりません。

 私たちは何故奉仕をし、献金をするのでしょうか。神への感謝を言葉だけではなく、行いと真実をもって表すためです。神が私たちに与えて下さった余りにも大きな愛を思うとき、奉仕にしても、献金にしてもこれで満足と言えるほどにはなし得ていないことを神に詫びずにはいられません。むしろ「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(ルカ17:10)と祈るのみです。

 私たちは何故伝道するのでしょうか。イエス・キリストは私たちに黄泉と天国の鍵を託されました。私たちの目の前で、人々はどんどん滅びの世界を目指して急いでいます。彼らが神を知らないままこの世を去るに任せて良いのでしょうか。毎週毎週私たちの教会堂のベンチに空席が目立ちます。これでよいのでしょうか。人々は神ならざるものを拝みに色々なところへ出かけています。それは実はサタンを拝んでいるのです。そのまま放っておいて良いのでしょうか。

 イエス・キリストは今あなたに「わたしを何者だと言うのか」と問いかけておられます。今この方に応答して下さい。そして、この方だけを主と拝してこの方だけに従う者となって下さい。  祈ります。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

 今朝私たちはイエス・キリストがどなたであるか、イエス・キリストがお建てになる教会とはどのような群れであるのかを学びました。あなたこそ生ける神の子キリストですと告白する群れをもっと多く起こして下さい。その為に私たちを主なるあなたの僕として用いて下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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