【主日礼拝メッセージ】                           2001年8月12日

「からし種の信仰」

マタイによる福音書17:14-20

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 高い山の上で主イエスと共にいた世界は実に清らかで、平和で、慈しみに満ちたものでした。ペトロがいつまでもここにと願った気持ちが分かります。一方山の下にいる人々の生活は悲しみと不幸と不信仰が渦巻く世界です。主は山から下りて、この世界に再び入って行かれます。山里では一人の人が他の弟子9人の所へ「てんかん」を病む息子を癒して下さいと連れてきました。彼らは何とかしてこの子を救おうと努力しますが、子どもには何の良い兆候も見られません。父親はがっかりしましたが、ちょうどそこへ主がこられました。彼は走り寄って事情を説明し、「主よ、息子を憐れんで下さい」と懇願しました。主は悪霊がのさばっている状況と、無力な弟子たちに、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言いながら、その子を癒して下さいました。どうして癒せなかったのですかと尋ねる弟子たちに、「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができる」と言われました。

 「からし種」と「山」の対比は、最も微少なものと、遙かに大きなものとの比喩です。からし種ほどの信仰という場合、それはあるかないか見分けのつかないほど微少なものという意味です。まるで見当もつかない信仰です。でも信仰なのです。山のように動かし難い困難の前にあっても、からし種一粒の信仰があればその山は不動ではないのです。

 福音書の著者マタイは、「私はその9人の1人でした」と証しています。思えば彼にとって恥ずかしい経験です。でも主がどんなに憐れんで下さったかを思えば、語らずにいられないのです。心に思っているだけでは恵みは半減してしまうからです。

 私たちも同じです。私たちも礼拝の中で、あるかなしかの信仰ですが、主の恵みの数々を証せずにいられないのです。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「からし種の信仰」

マタイによる福音書17:14-20

 

 この記事はこれまでと同じようにマルコによる福音書をベースにして書かれていますが、マルコは病に苦しむ子どもの父親の信仰がテーマになっていますが、マタイは弟子たちの信仰をテーマに取り扱っています。

 高い山の上で主イエスと共にいた世界は実に清らかで、平和で、慈しみに満ちたものでした。ペトロがいつまでもここにと願った気持ちが分かります。しかし一方山里にいる人々の生活は悲しみと不幸と不信仰が渦巻く世界です。私たちの主は清らかな交わりの山から、里にうごめく人々のもとへと、再び入って行かれます。聖い天の父なる神の御許からこの罪深い世界に降臨されたクリスマスの夜と同じように。

 山里では9人の弟子たちが待機していましたが、そこへ一人の人が「てんかん」を病む息子を連れてきました。彼らは何とかしてこの子を救おうと努めますが、何の兆候も見られません。父親はがっかりしました。ところがそこへ主が3人の弟子たちを伴い、近づいてこられます。彼は走り寄って事情を説明した上で、「主よ、息子を憐れんで下さい」と懇願します。子どもの病名を、マタイは「てんかん」と言い、マルコでは直訳すると「月下彷徨症」とか、「夢遊病」と言います。しかし両福音書共このような不幸をもたらしているのは「悪霊」の仕業だという点で一致しています。主は悪霊がのさばっている状況を見、またそれをどうすることも出来ないでいる弟子たちを見て悲しみ、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われました。

 この事で私はある体験を思い出します。礼拝中に一人の青年が何か意味不明の声を挙げたかと思うと、口から泡を吹いてその場に倒れました。皆は救急車を呼びましょうかと言いましたが、私は彼が以前からてんかんの持病があると聞いていましたので、救急車を呼ぶ必要はないと言いながら、急いで舌を噛まないように口の中にタオルを押し込み、更にタオルを口から出さないように別のタオルで手を軽く縛り、風通しの良い部屋に蒲団(ふとん)を引いて寝かせて置き、みんなで祈って礼拝を続けました。終わった頃に彼も正気を取り戻して私たちの所に戻ってきましたが、倒れたことも、別室に寝かされたことも全く覚えていないと言うのです。神は彼に憐れみをかけ、また私たちの祈りを聞き届けてくださって、彼にそれ以上危険が及ぶことはありませんでした。それでもあの時、私たちは人間的に言えば、自分たちが正しい判断をしたのか自信がありません。大事に至らなかったから良かったものの、もし救急車を呼ばなかったために彼に万一のことがあったら誰が責任をとるのか、勿論牧師の私です。しかし人の命は誰にも贖えないのですから、私が刑務所に入ったからと言って本当に責任をとったことにはなりません。彼の家族から恨みを買うでしょうし、私はそれを甘んじて受け、一生家族の方に償い続けなければならなかったでしょう。まさに神の憐れみでした。そしてあの時教会のメンバーは神を信じ、牧師の私を信頼して素早く協力してくれましたし、心を一つにして祈りを合わせてくれました。その後も誰一人私を非難する人はいませんでした。私は彼らのその純粋さに触れて、信仰とは何かを学ぶことができました。

 主イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができる」と言われました。「からし種」と「山」の対比は最も微少なものと、それより遙かに大きなものとの比喩です。主が比喩として用いられた「山」はその辺の小高い丘という程度の高さではなく、峰連なる高い山脈を連想させる山です。この世は山脈のような困難が高く、そして幾つも重なり合いながら延々と続いています。また「からし種」は本当に小さなもので、気をつけないと折角手に乗せてもほんの軽い鼻息で吹き飛んでしまうほど小さいのです。ましてやその中の一粒だけを取り出すなんてことは殆ど不可能です。からし種一粒ほどの信仰という場合、それは最早あるかないか見分けのつかない微少なものという意味です。でも信仰なのです。信仰とは神への信頼という意味です。あるかないか分からないとしても、神により頼んでいることは間違いのない事実です。それは人目には認めて貰えないようなものなのでしょう。でも彼は神無しに生きられないことを認めている故に、神もまたそれを信仰と認めて下さっている、それがつまりからし種一粒の信仰なのです。しかし主の目にはあの9人の弟子たちの中に、一粒のからし種ほどの信仰さえ認められません。だから、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われたのです。しかしよく考えて下さい。それでも彼らは弟子と呼び続けて貰っています。

 マルコは父親と主イエス・キリストの対話の中で信仰とは何かを学び、マタイは主と自分たち弟子との対話の中で弟子とは何かを学んでいます。事実福音書の著者マタイはこの箇所で、「私があの9人の中にいた1人です」と証しているのです。マタイは「自分たちの不甲斐なさを叱りながら、それでもなお主は忍耐と寛容をもって、この私を弟子として受け入れて下さったのだ」と証しているのです。これが証です。証とは決してかっこ良いものではないのかも知れません。恥ずかしいことを語らなければならない時もあるでしょう。また辛い日々の思い出が甦ってくる場合もあるでしょう。自分の立場を超えて赤裸々に罪の事実を明らかにしなければならない事もあります。世知に長けた人は、「そこまで言う必要はないよ」と言うでしょう。しかしその辛い過去の中で、主がどんなに憐れんで下さったかを思えば、語らずにいられません。心に思っているだけでは恵みは半減してしまうからです。だからマタイはこの出来事を自らの証としてここに著しました。

 私たちも同じです。私たちも礼拝の中で、あるかなしかの信仰ですが、主の恵みの数々を証せずにいられないのです。それによって「恥は我がもの、栄光は主のもの」という確信が与えられるのですから。祈りましょう。

 

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

あなたは私たちの中に、ほんの一粒のからし種ほどのささやかな信仰であっても見逃すことなく喜び、受け入れて下さいます。けれども正直言って過ぎた一週間を振り返るとき、恥ずかしい思い出が沢山甦ってきます。あなたを忘れた日々、あなたを考えながら、罪の誘惑に勝てなかった日々でした。今これら数々の罪を悔い改めますから、今一度十字架の御血潮によって私たちを清めて下さい。そして今頂いた御言葉によって私たちを支え、導いて下さい。旧約聖書の詩人が言いましたように、「わたしは仰せを心に納めています あなたに対して過ちを犯すことのないように。」(詩編119:11)といつも祈る者とならせて下さい。

私たちの主イエスの御名によってお願い致します。アーメン。


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