【主日礼拝メッセージ】                           2001年8月26日

「神 の 子 イ エ ス」

マタイによる福音書17:22-27

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 ペトロが神殿税徴収係とやり取りをして家に帰ってくると、主イエスはペトロに地上の王と天の父、地上の王子とイエスご自身に譬えて、本来自分には納税義務が無いどころか、税を受け取る側の者であることを明確にして、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」と言います。主イエスはマタイ12:6で、「神殿よりも偉大なものがここにある」と言われたことがあります。神殿は神の臨在の象徴です。主イエス・キリストこそ真に「宮よりも偉大」な方、人々からの礼拝を受けるべき方、人々に感謝の献げ物、従順を求める立場のお方です。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と主イエスは言われます。 ペトロに対して、実は主イエスに対して納税の督促に来た人は宮の指導者ではありません。彼らの下で忠実に徴収の仕事をこなしている人たちです。そのような彼らに不必要なつまずきを与えないようにしたいと思われたのでしょう。またイエスを正しく認めることの出来ない指導者たちにも十字架と復活を経るまでは人々の前に、御自分の立場を隠さなければなりません。敵をも赦すとはこの事です。

私たちは16章から引き続いてイエス、このお方が何者であるかを改めて学ぶことが出来ました。

 上にある者が身を低くすることは真に麗しいことです。しかし、主イエスは何故こうも低くならなければならなかったのかよく考えなければなりません。神の御子にそこまで身を低くさせるほど罪深い者、傲慢な者、それは誰かと言うこと、主が十字架にまで己を低くしなければならないほど罪に鈍感であったのは誰かと言うことを今静かに考えましょう。そしてこの方の前に心からその罪を悔い改めましょう。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「神 の 子 イ エ ス」

マタイによる福音書17:22-27

 

 あの高い山の上で神々しい主イエス・キリストのご本質に触れた弟子たちは、それに引き続き山里で重い病の子どもとその両親を苦悩の果てからお救いになった主の驚くべき御業を経験した弟子たちは、いたく感動しました(ルカ9:43)。やはりこの方についてきたことは間違いではなかったと感慨ひとしおのものがあったことでしょう。しかしその直後、主イエスは三度(みたび)御自分の受難と復活を予告なさいます(16:21、17:12)。しかもこの度は受難の内容が少し具体的になってきています。「人々の手に引き渡される」という言葉は弟子たちにとって初めて聞く言葉です。「引き渡す」とは、誰かの手から手に引き渡すことです。いったい主は誰の手から「長老、祭司長、律法学者たち」の手に引き渡されるのでしょう。つまり主は暗に、この弟子の中から裏切り者が出るということを予告なさったのです。こんな事はあってはならないことです。マタイはこの時弟子たちは「非常に悲しんだ」と書いていますが、マルコ9:32ではこの言葉の真意を「怖くて尋ねられなかった」と書いています。これから先、主がどのようなことになり、自分たちがどうなるのか分からないが、とにかく従って行くしかないことを確認した瞬間でもあります。

 マルコ、ルカはこの物語の後すぐに、マタイで言えば18章の物語に取りかかっていますが、ここマタイは彼独自の調査で得た資料を特別の記事として挿入しています。それは主とペトロの間に起こった一つのエピソードです。それは「神殿税」納入を巡っての話です。

 神殿税の徴収係が税の督促に来ました。神殿税については出エジプト記30:11〜16にその起源を遡(さかのぼ)ることが出来ます。これは20歳以上の兵役義務を負う男子が「命の贖い代」として毎年納めるように義務づけられたものです。金額は年間二日分の日当に相当する1/2シェケル銀貨です。貧富の差にかかわらず、これ以上であってはならないし、これ以下であってもならないと言う付則までついています。この金額なら誰でもどうにか都合のつく税額です。人間一人の命の贖い代としては易すぎます。富める者も貧しい者も等しく誇るべき所のない罪人として、その為に等しく贖いを必要とする者であることを毎年覚えさせるための真理の教科書としてこの律法はあります。神のなさることはいつも折りに適って麗しいと実感する税額であり、戒めです。所でこの税金の使い道はと言いますと、これも律法に明記されています。これは「神殿修復」のために蓄えておくものなのです。今日で言う「会堂修理」のための献金です。現代の教会が新築の間からこの献金を怠っているから、いざというときに会堂を繕うお金の捻出に困るのです。

 ペトロが外で神殿税徴収係とこのようなやり取りをして家に帰ってくると、中には主イエスの他誰もいなかったようです。主はペトロに地上の王と天の父、地上の王子とイエスご自身を譬えて、本来自分には納税義務が無いどころか、税を受け取る側の者であることを明確にしておいて、「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」と仰せになります。主イエスはマタイ12:6において、「神殿よりも偉大なものがここにある」と言われたことがあります。イスラエルにとって神殿は神の臨在の象徴です。そして神が人のかたちをとっておいでになったイエス・キリストの御前には、太陽と星の輝き以上の差があります。星の輝きは元々太陽の光を反射したものに過ぎないのですから、問題になりません。イエスこそ真に「宮よりも偉大」な方なのです。イエスこそ、人々からの礼拝を受けるべき方です。イエスこそ人々に感謝の献げ物、従順を求めるべきお方です。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」と主イエスは言われます。ペトロに対して、実は御自分に対して納税の督促に来た人は長老、祭司長、律法学者など宮の指導者ではありません。彼らの下で忠実に徴収の仕事をこなしている人たちです。そのような彼らに不必要なつまずきを与えないようにしたいと思われたのでしょう。またイエスを正しく認めることの出来ない指導者たちにも、十字架と復活を経るまでは人々の前に、御自分の立場を隠さなければなりません。敵をも赦すとはこの事です。

 私たちは今日の聖書テキストから、そして16章から引き続いて、イエス、このお方が何者であるかを改めて学ぶことが出来ました。上にある者が身を低くすることは真に麗しいことです。しかし、主イエスがどうしてこうも低くならなければならなかったのか、よく考えなければなりません。それは神にそこまで身を低くさせるほど罪深い者、傲慢であった者、それは誰なのかと言うことです。主が十字架にまで己を低くしなければならないほど罪に鈍感であったのは誰なのかと言うことを今静かに考えましょう。そしてこの方の前に心からその罪を悔い改めましょう。

祈りましょう。

天の父なる神様、あなたの御名を崇め、讃美します。

あの高い山で御自分の真の本質の姿を見せて下さった主イエス・キリスト、それにも拘わらず、十字架への道を唯一筋に歩んで下さった主イエス・キリスト、その無知、無理解な弟子の一人ペトロと共に同じ人の子として御自分の象徴に過ぎないはずの手で造られた神殿の為に納税の義務を負って下さった主イエス・キリスト、あなたこそ真に私たちの救主です。あなたこそ真に主なる神です。栄光が世々限りなくあなたにありますように。

私たちの主イエスの御名によってお祈り致します。アーメン。


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