【主日礼拝メッセージ】 2001年9月2日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
天国で一番偉い人は、「幼子のように自分を低くする人」です。教会の中で色々なクリスチャンを見て一番偉い人は誰か、神さまに愛されている人は誰かと観察して、その人に学ぶことはよいことです。しかし人が人を観察し、また評価してもそれは間違っていることもあります。自分の物差しで人を見てしまうからです。天にいます父なる神さまを仰ぎ見るのが正しいのです。そうすれば、人のことをあれこれ評価できない自分がいやでも目に付きます。主イエスは幼子に学べと言われました。確かに幼子はただ見ている分にはかわいいですが、大人と大差ない欠点や罪をたくさん持ち合わせています。それでも私たちは幼子から学ぶことは少なくありません。子どもは幼ければ幼いほど、二つのものを慕い求めます。
@ 親を慕い求めます−親に対する全幅の信頼です。
A 食べ物を慕い求めます−食べることを本文とします。
ヨハネによる福音書1:18に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と記されています。「独り子」とはイエス・キリストです。 イエス・キリストはまたヨハネによる福音書1:14で、「神の言(ことば)の受肉である」と言われています。聖書を読むことで私たちは神を見ることが出来るのです。主イエスの弟子であるペトロはこの教えからヒントを得て、小アジアの諸教会に宛てた手紙の中で、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(气yトロ2:2)と霊の乳に譬えながら、聖書を熱心に読むことを教えています。
天国で一番偉い人は誰か?この質問を受けて主イエスは私たちにもう一度教会について学ばせて下さいます。天国は肉体が死んだ後に、或いはイエス・キリストの再臨の時に迎え入れて頂く所ですが、教会はその雛形です。ですから天国で一番偉い人とは教会で一番偉い人のことであり、やがて神さまの御許に召されたとき、そう呼ばれる人のことです。この教えから天国で一番偉いと言われる人は3つのことをきちんと出来る人だと言うことが分かります。
一、幼子のように自分を低くする人
天国で一番偉い人は第一に、「幼子のように自分を低くする人」です。私たちは教会の中にいる色々なクリスチャンを見て一番偉い人は誰か、神さまに愛されている人は誰かと観察し、その人に学ぶことはよいことですが、しかしはっきり言って、人が人を観察し、また評価してもそれは間違っていることもあります。自分の物差しで人を見てしまうからです。むしろ、天にいます父なる神さまを仰ぎ見るのが良いと思います。そうすれば、人のことをあれこれ評価できない自分がいやでも目に付きます。主イエスは幼子に学べと言われました。確かに幼子はただ見ている分にはかわいいですが、大人と大差ない欠点や罪をたくさん持ち合わせています。それでもやはり私たちは幼子から学ぶことは少なくありません。子どもは幼ければ幼いほど、二つのものを慕い求めます。
B 親を慕い求めます−親に対する全幅の信頼です。
C 食べ物を慕い求めます−食べることを本文とします。
ヨハネによる福音書1:18に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と記されています。「独り子」とはイエス・キリストです。 イエス・キリストはまたヨハネによる福音書1:14で、「神の言(ことば)の受肉である」と言われています。聖書を読むことで私たちは神を見ることが出来るのです。主イエスの弟子であるペトロはこの教えからヒントを得て、小アジアの諸教会に宛てた手紙の中で、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(气yトロ2:2)と霊の乳に譬えながら、聖書を熱心に読むことを教えています。主イエスが幼子に学べと言われたのはこの事です。
二、つまずきを与えない人
天国で一番偉い人は第二に、「つまずきを与えない人」です。ギリシャ語には愛と言う文字が4つありますが、その一つに「エゴー」と言う愛があります。「自己愛」と言うことが出来ます。エゴーは大切な愛の一面を持っています。聖書に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と言う戒めがあります。本当に自分を愛せないで、どうして隣人を愛することが出来るかと言う意味です。しかしこの自己愛も度が過ぎると、「自己中」という怪しげなものに変身してしまいます。隣人などどうでも良くなってしまうのです。最近の悲しい事件の大半はこの行き過ぎたエゴーがもたらしたものと言うことができます。「あの人につまずいた、この人につまずいた」と責任を全て自分以外の人や事柄に置きたがる人がいます。そう言う人はいつも自分が一番かわいそうな犠牲者であり、被害者なのです。しかし主イエスはこの6節から「あなた自身がつまずきの原因になっていないか気を付けなさい」と警告しておられます。つまずくという言葉のギリシャ語は「スカンダロス」と言って、「罠をかける」という意味があります。罠とは「獲物を捕らえて殺す目的で仕掛けるもの」と言う意味があります。怖い言葉です。「つまずいた」とは、「罠を仕掛けられた。死ぬかと思った」と言うほどの怖い言葉ですから、そんなに簡単に使ってよいものかと言う戒めとも聞こえてきます。私たちが手にしている新共同訳聖書は一貫して「つまずき」と言う言葉で訳していますが、他の訳の聖書によると、7節は「罪の誘惑」という言葉で訳されています。勿論原典はここでも「スカンダロス」という単語です。誘惑には恐ろしい罠が仕掛けられています。この世に生きる限りそれを避けて通ることは不可能だと主イエスは言われます。ある人を信じて打ち明けたところ、それに尾ひれが付いて世間に言いふらされていたと言う苦い経験をした人はいないでしょうか。絶対大丈夫という言葉を信じて買った物が、3日もしたら使い物にならなかったと言う経験談も良く聞きます。私がまだ世間の恐ろしさが良く分かっていない頃、一人のセールスマンのうまい話に乗せられて、給料の何ヶ月分もの買い物をさせられそうになったことがあります。
更に恐ろしい罠は「罪の誘惑」です。これは正義を求める人、清くありたいと願う人に対して最も巧妙に忍び込んでくる罠です。裁判官の買春事件がありました。警察官の収賄事件がありました。学校の先生が覚醒剤に手を出していた事件がありました。宗教家であっても例外ではありません。金銭や性的不祥事を起こした事件を聞くことがあります。この世はあちらにもこちらにも「罪の誘惑」という罠が仕掛けられています。聖書は言います。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:13〜14)
罪の誘惑を仕掛ける者に対する審きは勿論厳しいですが、ヤコブが言うように、誘惑に陥った者の罪も重大です。そのような人は五体揃ったままで地獄に落ちる前に、五体の一部を失っても天の国に引き上げられる道を選ばなければなりません。片手、片足、片目を切り捨てるとは、本当にそうすることではなく、それほどの真剣さをもって誘惑に陥った罪を悔い改めなさいという意味です。この手が取り返しのつかない罪を犯しました。この足が、この目がと会衆の面前で告白することは死ぬほど恥ずかしいことでしょう。何もそこまで会衆の前に曝さなくてもと逃げ出したくなるかも知れません。しかし、ダビデはそれをしました。彼は破廉恥な罪を最初は隠し続けました。しかし、王室付き牧師である預言者ナタンがそれを指摘しました。すると彼は悲しみながらも素直に罪を認めて言い表しました。その時彼は罪の赦しと永遠の命を受ける道が開かれ、その後の人生は大いに祝福されたのです。罪を指摘して悔い改めを迫ったナタンを悪者扱いにして回りに言いふらすことをしませんでした。そればかりか、後の世の人が同じ過ちを繰り返さないようにと次の讃美歌を残しています。
「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。わたしが自分の罪を言い表さなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った。『わたしのとがを主に告白しよう』と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。」(詩編32:1〜6、口語訳)
今日ここにおいでになったあなたに申し上げます。もし、あなたが罪の誘惑に負けて何か罪を犯してしまったと思い当たる節があったら、今すぐにその罪を悔い改めて下さい。悔い改めるとは、あなた自身が罪を認めて、神さまにご免なさいと告白することです。神はあなたの罪を赦して下さいます。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められ」るからです(气ハネ1:17)。
三、迷える羊をたずね求める
天国で一番偉い人は第三に、「迷える羊をたずね求めるる人」です。この譬え話はルカによる福音書15章にもっと内容豊に書かれています。イエスさまはきっと色々な機会にこのお話をなさったことでしょう。ただルカ15章の場合は特定の指導者階級を相手になさったようですが、ここでは弟子全体、今日で言うなら、キリスト教会全体に対しての教えと読むことができます。百匹の中から迷い出た一匹の羊を求めてオーナーは捜しに行きます。この世界に生きとし生ける全ての人は神さまにとって大切な羊です。この世界は全て神さまによって造られたからだと聖書は言います。全ての者は神さまのものだから、その中のだれ一人失いたくないのです。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)とイエス・キリストは言われました。
教会に与えられた使命の第一は伝道、第二は伝道、第三も伝道です。教会は教会に来る人が誰でも大切にされる場でなければなりませんが、同時にまだ教会に来ることも出来ないでいるもっと多くの迷える羊のいることも忘れてはなりません。教会に来ている人だけを相手に交わりを喜んでいて良いのかと言われる主の御声がこの箇所から聞こえてきます。
私たちはこの世の生を終えて神さまの御前に出るとき、その天の国で良くやったとおほめの言葉を頂けることを期待しましょう。その為に地上に生かされている間に幼子のように素直に、そして熱心に聖書を読み、罪の解決が与えられ、出来る限り多くの人にイエス・キリストの福音を伝える者となりたいものです。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。
私たちはクリスチャンとして口には出さなくても、正直心の中でこの教会で一番偉い人はだれだろうかといつも気になって仕方ありません。そして自分の物差しでこの人がそうだろうと判断しては、この人のようになりたいと憧れもします。しかしイエス・キリストは最も確かな模範である幼子を私たちの目の前に示して、幼子のような心で聖書を読み、罪に目覚めて悔い改め、幼子のように純粋な心で人を差別しないで迷える羊のようなこの世の人々を教会に導くこと、イエスさまの救いに与ることが出来るように出ていって福音を宣べ伝えることを教えて下さいました。今日からは、あなたのみ教えに従って、「自分を愛するように隣人を愛」する心、一人でも多くの人が教会へ来ることが出来るようにと言う祈りを欠かすことがありませんように。
私たちの救主イエス・キリストのお名前によってお願いします。
アーメン。