【主日礼拝メッセージ】 2001年9月23日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
「天の国」とは、神が支配しておられる状況を言います。教会はその雛形です。この譬え話の中の王に対する借金とは私たち人間が神に対して負うている「罪」のことを言います。私たちが神に対して負っている罪という負債は積もり積もって、もはや償いきれません。当時1万タラントンは一国の王の身代金に相当する金額でしたが、それを王が帳消しにしたように、神はそれにもまさる独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてこの世に送り、十字架にさえ惜しまず与えて下さいました。神は何故こうまでして私たちを救って下さったのでしょう。それは神にとってこの世の誰もが愛の対象だからです。譬え話の中の家来は王にとって1万タラントンにもまさる大事な家臣だったのでしょう。私たちは果たして神の御前にそれほど値打ちのある人間でしょうか。私たちには分かりません。神だけがご存知です。とにかく私たちはそれほどに愛され、そして救われたのです。今あなたは神の御前に測り知れない罪を負っているとお考えですか?もしそうだと認めるなら、あなたの一切の罪という負債を神さまは全て十字架のイエス・キリストによって愛し、赦し、受け入れて下さいます。この事実を信じて下さい。
譬え話は続きます。家臣は喜んで家路につきましたが、途中100デナリオンを貸している仲間に出会いました。彼はつい先程1万タラントンの借財を赦して貰ったことを忘れてその仲間の首を絞めるようにして返済を迫ります。100デナリオンは当時1日の平均賃金が1デナリオンと言いますから、約4ヶ月分の日当に相当する金額であったと言うことが出来ます。1万タラントンとは大きな開きのある金額です。それなのに彼はひれ伏して哀願する仲間を赦そうとせず、訴えて留置してしまいました。それを見ていたもう一人が非常に心痛めて主君に報告しました。主君は怒って彼を投獄したと言うことです。
主イエスは悔い改めない者を対象にしてこの話をされたのではありません。たとえ一日に七回あなたに罪を犯した人であっても、七回悔い改めます。と言ってあなたの所に来るなら、七を七十倍してでも赦してやりなさいと言われたのです。「主の祈り」の一節と深いつながりのあることに気が付きます。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」
人の罪過ちを赦すことは易しいことではありません。15〜20節で主イエスの教えを聞いたペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねました。何という懐の広さでしょう。俗に「仏の顔も三度」という諺があるように、7回も赦せる人はそういません。しかし私は思うのですが、ペトロはどうして5回でも10回でもなく7回という中途半端な数字を持ち出したのでしょうか。これはマタイには紹介されていませんが、多分ルカ17:4で言われた主の教えを確認するつもりで問いかけたものと思われます。主はこう言われました。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と。
つまりペトロは、甲が乙を赦すことの出来る限界を回数で確認したかったのです。7回赦せば十分ではないですか。と言いたかったのです。確かに7回も人を赦せる人は、そうお目にかかれるものではないでしょう。しかし意地悪く考えると7回も人を赦せる人であっても、8回目にはどうなるのかと好奇心をそそられます。と言うのはペトロの言葉に気になる一言があります。彼はこう言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」(傍線説教者)と。これは義務感から出た言葉です。主イエスの教えを受けてこれを実践しようとしたことは大変積極的な信仰生活のようですが、具体的な問題に直面したとき、赦しの回数を1回、2回と数えながら、本心は後6回、後5回と赦しの限界をカウントダウンさせているのです。これがペトロに代表される私たちの姿です。
ペトロの問いかけの7回と、ルカ17:4で主イエスが言われた7回と同じ数字のようですが、質的には全く異なります。先程も言いましたように、ペトロの言う7回は、8回目にはどうなるのかという疑問を残しますが、主イエスが言われた7回、或いは7の70倍の赦しには8回目は?とか、491回目は?と言う疑問を差し挟む予知のない永遠、絶対の赦しを意味するのです。こんなことはどう考えても無理です。余りの標準の高さに私たちは聖書を閉じてしまいます。そして「見なかったことにしよう」と言いたくなります。でも私たちは聖書を閉じてはいけないのです。見なかったことにしてはならないのです。主イエスの教えはまだ続いています。聖書のもっと先を読まなくてはなりません。そうすればこの教えが実践不可能な理想論か、そうでないのかはっきりします。
「天の国は次のようにたとえられる」と主イエスの話は続きます。ある王が、家来たちに貸したお金の決済をしようとしたところ、先ず一人の家来が呼び出されました。1万タラントンもの借金をそのままにしていたからです。少し借り、少し借りしている内に返済できないほどの金額になったのでしょう。王は信頼する家来であり、きっと困っているのであろうと心から同情して貸していましたが、借りている側はルーズな人のようです。返済計画を十分に立てないまま、ずるずると借りることに馴れる人がいますが、この人はどうもそのタイプのようです。思いもかけず決算の日が突然やってきました。返しきれない金額の借用証を前にして震え上がりました。今更どうしようもありません。家財道具を売り尽くし、家族全員奴隷となって返済せよと迫られました。それでも彼は頭を地面にこすりつけるようにしてひれ伏し、「どうか待ってください。全部お返しします」と今暫くの猶予を願い出ました。今まで待っても返せない男が大金を右から左に作れるはずのないことは分かっています。だからこそ憐れに思った王は彼を赦し、一切の免除を申し渡したと言うことです。積もり積もって1万タラントンとは余りに巨額なお金です。今日のレートで換算してどのくらいになるのか正確にはわかりませんが、当時一国の王の身代金に相当する額であったと言うことです。借りる方も借りる方なら、貸す方も貸す方です。更に圧巻は全額を免除した王のあっぱれな度量です。自身の身代金にも相当する債権をポンと放棄したのですから。
これは天の国の譬え話です。前にも申し上げましたが、主イエスが「天の国」と言われるとき、それはこの地上において神が支配しておられる状況を言います。教会はその雛形です。教会に集められている人は皆この譬え話の中の家来と同じなのです。この譬え話の中の王に対する借金とは私たち人間が神に対して負うている「罪」のことを言います。私たちが神に対して負っている罪という負債は積もり積もって、もはやどんなにしても償いきれません。1万タラントンは一国の王の身代金に相当すると申し上げましたが、それを譬え話の中の王が帳消しにしたように、神は遙かにまさる独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてこの世に送り、しかも十字架にさえ惜しまず与えて下さいました。神は何故こうまでして私たちを救って下さったのでしょう。それは神にとってこの世の誰もがそれほど愛すべき対象だからです。あの譬え話の中の家来は王にとって1万タラントンにもまさる大事な家臣だったのでしょう。しかし私たちは果たして神さまの御前にそれほど値打ちのある人間でしょうか。私たちには分かりません。神だけがご存知です。とにかく私たちはそれほどに愛され、そのようにして救われたのです。今あなたは神さまの御前にはかり知れない罪を負っているとお考えですか?もしそうだと認めるなら、そのあなたの一切の罪という負債を神さまは全て十字架のイエス・キリストによって愛し、赦し、受け入れて下さいます。この譬え話の通りです。今その事実を信じて下さい。
ここで話は終わっても良いのですが、それでは今日の主題に本当の意味でまだ近づいていません。イエスさまの譬え話はまだ続きがあるのです。主君から1万タラントンもの借財を帳消しにして貰った家臣は喜び勇んで家路につきました。所が途中で100デナリオンを貸している仲間に出会いました。彼はつい先程1万タラントンの借財を赦して貰ったことを忘れてその仲間の首を絞めるようにして返済を迫ります。100デナリオンも現在のレートで換算していくらになるのか正確なところは分かりませんが、当時1日の平均賃金が1デナリオンと言いますから、約4ヶ月分の日当に相当する金額であったと言うことが出来ます。1万タラントンとは大きな開きのある金額です。それなのにあの家来はひれ伏して哀願する仲間を赦そうとしないばかりか、訴えて留置してしまいました。物陰から見ていたもう一人が非常に心痛めて主君に事の顛末を報告しました。王は早速彼を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして主君は怒って彼を投獄したと言うことです。
こんなに分かり易い譬え話はありません。それでも主イエスは念のために何故この譬え話を話したか、その理由と目的を最後の締めくくりとして教えて下さいます。
「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
主イエスは悔い改めない者を対象にして話されたのではありません。たとえ一日に七回あなたに罪を犯した人であっても、七回悔い改めます。と言ってあなたの所に来るなら、七を七十倍してでも赦してやりなさいと言われたのです。この教えを読んで初めて「主の祈り」の一節と深いつながりのあることに気が付きます。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。
私たちはあなたに対して実に多くの負債、償いきれない罪を犯していた者でした。けれどもあなたは私たちの罪を帳消しにするために、御自身の愛する独り子イエス・キリストをこの世に与え、深く聖い愛の御心を示して十字架の死と甦りを通して私たちの罪を赦し、清め、永遠の命を与え、あなたの僕として受け入れて下さいました。私たちはこのようにして天の御国の雛形である教会の交わりの中におかれています。
しかし主よ、私たちは実に愚かな者ですから、私たちを再び罪の泥沼に引き込もうとするサタンの誘惑に負けて罪を犯した仲間を赦せないのです。罪を犯しながら知らんぷりを決め込んでいる人ならいざ知らず、ご免なさいと赦しを乞うている人までも赦せない傲慢が顔を出してきます。今朝のみ言葉を感謝します。主の祈りの教えを感謝します。あなたの赦しの中に置かれていてこそ今日あることを思い知らされました。十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないでいるのです」(ルカ23:34)と祈られた主イエスに倣う者とならせて下さい。
私たちの救主イエス・キリストのお名前によってお願いします。
アーメン。