【主日礼拝メッセージ】                           2001年10月7日

「神が合わせられた者」

マタイによる福音書19章1〜12節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 ファリサイ派の人々は「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねます。これは旧約聖書の戒めを背景にした質問です。そこにはこう書かれています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)と。これは、男性中心の考え方が支配的な時代の法律です。しかしモーセは当時余りにも理不尽に扱われている女性を救うために、夫が理由もなく妻を去らせることが出来ない歯止めとしてこのような律法を考えたわけです。しかし当時の男たちは今の妻を離縁して新しい女性と再婚したいと言う邪な心から妻に「なにか恥ずべき事」はないかと口実を求めて「恥ずべきこと」の解釈をラビ(律法学者)たちに求めたと言うことです。

 しかしこの聖書テキストは結婚や離婚の問題に限った教えと読んで良いのでしょうか。確かにファリサイ派の人々の質問はそうでした。しかし主のお答えは結婚/離婚を越えて、もっと根本的な人生そのものに対する問題提起をしておられるように読めます。主は「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と言われました。「この言葉」とはどの言葉でしょうか。これは6節の「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉のことです。これは創造の初め、アダムに御心をかけて下さった神のお言葉を受けたものです。あの時神はこう言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」(創世記2:18)と。人は独りでは生きて行けません。そしてこれを12節のみ言葉と重ね合わせて読むと、祝福された人生、幸福な人生を求める祈りの道は、結婚だけが全てではないと言うことが分かります。神がどのような道を私たちのために備えて下さっているか私たちにはわかりません。結婚によっても、或いは別の人生においても、それが神の御心ならばと受け入れ、御摂理であるならと従う者のためには必ず「神が合わせてくださる助け手」に出会う道が開かれるのです。主はそのような意味で「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」と言われました。受け入れましょう。神は私たちに決して孤独で不幸な人生を与える方ではないと言うことを信じましょう。

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「神が合わせられた者」

マタイによる福音書19章1〜12節

 

 「イエスはこれらの言葉を語り終えると」で始まる19章からは、主イエスの宣教活動がまた一つ新しい段階に入ったことを意味します。それは俗に言う「死出の旅路」という段階です。「ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた」と言うことですが、位置関係で言うと聖書巻末の地図を見ていただくとお分かりいただけますように、主イエスはエルサレムへと直行しないで、ヨルダン川の東側にあるベレア地方を迂回なさったようです。地上における最後の旅になるこの機会にまだ訪れたことのない地方の人々に福音を宣べ伝えようと言うご配慮です。しかしここでもファリサイ派の人々が素朴な住民を押しのけて、主イエスの宣教を妨げます。そして神に仕える身にありながら、言葉の落とし穴を作って主を試みようとしました。とは言えものは考えようで、この出来事のお陰で私たち牧師は教会で結婚式を司るメッセ−ジの準備に大変有意義な示唆が与えられたと感謝しています。

 ファリサイ派の人々は「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねます。これは申命記24:1を背景にした質問であることは続く7節から分かります。そこにはこう書かれています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と。このように一旦決まり事が出来ると、人は自分に都合の良いようにその決まり事を盾にしたり、また法の網をくぐる術を試みようとする傾向があります。男は外で仕事をし、女は家を守るものという男性中心の考え方が支配的な時代、次第に神の御心、神の真理から逸れてゆきました。けれども男が作った法律は思わぬ所で男にしっぺ返しをするものです。

 例えば私たち夫婦のことを申し上げれば、私が入った神学校はバプテスト連盟の神学校ではなかったので、奨学金はありません。安いとは言え、学費の一切は自己負担です。その上神学校の方針でアルバイトは許されません。偏(ひとえ)に妻の働きにかかっています。これが反対に私が働いて妻が学校に学ぶ場合、国は勤務先を通して私の給与に家族手当として妻や子の食い扶持の幾分かを補ってくれます。しかし当時の法律では妻が働き、私が学校に学ぶ場合は一円の家族手当も出して貰えませんでした。私が作った法律ではありませんが、どこかで男だけが集まり、男だけで作った法律が私の家庭に重くのしかかってきた次第です。それでも妻が働くことを許すこの国の法律は不完全とは言え、まだ救いです。今問題になっているアフガニスタンを実行支配しているタリバーンの法律では女性の労働も教育も一切認めていませんから、父親と夫に死なれて、或いは重いけがや病のために働けなくなって頼る者を失った女性は遺された子どもを抱えて路上で物乞いをしなければならないと言う状況です。これではますます国を貧しくし、成長を遅らせてしまいます。

 主が言われたようにモーセの律法である申命記24:1は、当時の社会状況を嘆き、理不尽に扱われている女性を救わんと、せめてもの歯止めとしてこのような律法を考えたわけです。しかし当時の男たちは今の妻を離縁して新しい女性と再婚したいと言う邪な心から、妻に「なにか恥ずべき事」はないかと口実を求めて「恥ずべきこと」の解釈をラビ(律法学者)たちに求めたと言うことです。ラビたちもまた男の理屈でこれを色々解釈しました。ヒルレルと言うラビは妻が料理を上手く作れなくなったと言うことを「恥ずべきこと」の理由にして良いと解釈し、ラビ・アキバはもっと過激に、好ましい女性に出会ったなら、既に現在の妻は「恥ずべき」存在だから離縁しても宜しいと解釈しました。しかしどのような決め事も小手先の解釈に終始する社会は本当の意味で人を幸福にはしてくれません。

 私たちはいつも主イエスの語られた原則に立ち帰るように心を配っていなければサタンの甘い誘いに乗って永遠の悔いを残すことになります。主イエスは創造主である神の御旨へと私たちを引き戻して下さいます。神は創造の初め、アダムを御心に留めて「人が独りでいるのは良くない」と言われました。そして造られたのがエバでした。男性の対極としての女性、父親の対極としての母親は人間社会の基礎です。それは対立のためにあるのではなく、助け合う関係として造られたのです。

 私は礼拝で司式の奉仕をして下さる執事さんたちに聖書を朗読するとき、各段落毎に太字で書かれているタイトルを読まないようにお願いしています。勿論祈祷会や個人的に聖書を学ぶときはこのタイトルを自由に読んでもらって良いのですが、礼拝ではやめてもらっています。何故かと皆さんは問うでしょう。当然の質問だと思います。礼拝では聖書そのものを読みたいのです。聖書そのものから神のメッセ−ジを聴きたいのです。聖書に書かれているタイトルはこれを翻訳した人の解釈であって聖書の本文ではありません。例えば今日の聖書テキストには「離縁について教える」とありますが、果たしてここは結婚や離婚の問題に限った教えと読んで良いのでしょうか。確かにファリサイ派の人々の質問はそうでした。しかし主のお答えは結婚とか離婚という問題を越えて、もっと根本的な人生そのものに対する問題提議をしておられるように読めるのです。

 ファリサイ派の人々と主のやりとりを聞いていた弟子の一人が、結婚というものに幻滅を感じたのか、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と呟きました。彼は独身だったのかも知れません。現代も折角大勢の人に祝福されながら、日ならずして別れて行くカップルが少なくありません。これは何も若い夫婦に限ったことではありません。熟年夫婦が定年を機に新しい人生を切り拓くと言いながら、何の未練もなく離婚して行く現実を前にすると、主イエスの弟子のように「じゃ、どうして結婚したの?」という溜息が聞こえてきます。ファリサイ派の人々の質問にはそうした非生産的なものを感じてならないのです。離婚を認めるか否か、認めるならどのような理由付けが必要か等という議論から人は本当に幸福な人生を見出せるものなのでしょうか。来週の伝道礼拝の主題は「逆転は人生にこそ」とありますので、今日の本当の回答は来週岸義紘先生が教えて下さると思います。聞き逃すことのないように是非誘い合ってご出席下さい。

 今はもう少し主イエスのみ言葉に聴きましょう。結婚に幻滅を感じている若い弟子の言葉を受けて、主は「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」と言われました。「この言葉」とはどの言葉でしょうか。これは6節の「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というみ言葉のことです。これは創造の初め、アダムに御心をかけて下さった主なる神のお言葉を受けたものです。あの時神はこう言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」(創世記2:18)と。人は独りでは生きて行けない者として神によって造られているのです。そしてこれを12節のみ言葉と重ね合わせて読むと、祝福された人生、幸福な人生を求める祈りの道は、結婚だけが全てではないと言うことが分かります。神がどのような道を私たちのために備えて下さっているか私たちにはわかりません。結婚によっても、或いは別の人生においても、それが神の御心ならばと受け入れ、御摂理であるならと従う者のためには必ず「神が合わせてくださる助け手」に出会う道が開かれるのです。主はそのような意味で「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」と言われました。受け入れましょう。神は私たちに決して孤独で不幸な人生を与える方ではないと言うことを信じましょう。

 くどいようですが、ここはただ離縁について教えているのではなく、神はあなたの人生に責任を持って下さるというメッセ−ジが主題であることを聴き逃さないようにしましょう。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。

み言葉を感謝します。私たちはあのファリサイ派の一人のように物事をいつも消極的に見ては、斜に構えてしまいます。その結果当然のこととして不幸な生活を招いてしまっています。けれどもあなたはそのような私たちに今日「人は独りでいるのは良くない」と言われました。結婚という生き方を選ぶ人も、独身の道を歩む人も等しく教会の交わりを通して「神が出会わせて下さる人生の伴侶」を与えると約束して下さいますから感謝です。あなたの御心は人と人とが相別れて生きることではなく、主イエス・キリストにあって一つに結びつくことにあります。どうかこの教会を初め、全ての教会の兄弟姉妹が互いに主を見上げながら、信仰によって一つとされますように。

私たちの救主イエス・キリストのお名前によってお願いします。

アーメン。


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