【主日礼拝メッセージ】                           2001年10月28日

「ぶどう園に行きなさい」

マタイによる福音書20章1-16節

メッセージ:高橋淑郎牧師

【要 旨】                                 

 この譬え話はマタイによる福音書にだけ見られます。マタイにとってそれほど強烈に心に焼き付く主の物語であったと言えます。なぜでしょう。これは想像ですが、彼の以前の職業に関係があるかも知れません。彼は徴税人でした。当時のユダヤ人はヘロデという国王を戴いてはいましたが、厳密に言うとヘロデは国王ではなく、領主という程度の地位でした。つまりユダヤ人はある程度の自治を許されていましたが、実質はローマ帝国の属国に過ぎなかったのです。当然国民から徴収した税収もその大半をローマに吸い取られていました。ですからマタイのような徴税人はユダヤ人の目には、ローマの飼い犬のように映るのです。宗教的にも汚れた者として選民の枠の外に置かれてしまいます。礼拝に行っても周囲から白い目で見られていることを感じないではいられず、「遠く離れて立つ」(ルカ18:13)しかないのです。マタイのような人種の終わりの為にはきっと地獄の釜の蓋が開けられているというのがユダヤ人の評価でした。恐らく彼自身も半ば諦め、半ば開き直り、どうせ地獄に落ちると定められているのなら、太く短くしたいようにして生き、したいようにして死んでやる、そんな生活であったと思います。所がある日、主イエス・キリストが彼の目の前に立ち、「わたしに従いなさい」と言って、主の弟子の一人に加えて下さったのです。地獄の釜の蓋が開いていると諦めていたのに、主イエスは彼に救いの御手を伸べて下さったのです。だから今日読む主イエスの譬え話は彼にとって他人事と聞き流せないのです。夕方の5時にやっとぶどう園に導かれた人と同じように、自分こそ誰よりも後から主の弟子とされたのに、他の弟子と同じように1デナリの賃金、永遠の命の賜物を与えられた者と確信したからこそ、ここに書き記したのではないでしょうか。

 このようにこの地上の時間の長さにかかわらず、その信仰によって天国で受ける賃金は同じ1デナリ、永遠の命なのです。早くからイエス・キリストを信じた人も、いまわの際にイエス・キリストを信じた人も神さまから受ける賜物に何の優劣もありません。罪を悔い改めるのに遅すぎると言うことはないのです。一人一人に与えられている地上の時間は丸ごと1デナリという救いの恵み、永遠の命を頂く為に与えられている時間なのです。あなたも今すぐにぶどう園に行って下さい。残された人生の限りを尽くして主のご用にあなた自身を用いて貰ってください。

 

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【主日礼拝メッセージ・本文】     

「ぶどう園に行きなさい」

マタイによる福音書20章1-16節

 

 ペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従いました。 では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と尋ねました。主イエスはルカの言葉を借りて言えば、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は誰でも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」(ルカによる福音書18:29−30)と約束しました。そしてこの譬え話です。  ここはマタイ独自の記事です。よほど印象深いものとなったのでしょう。それは後でお話しします。

 農業は生き物相手の仕事です。たわわに実ったぶどうも時期を外すと腐って売り物になりません。刈り入れは時間との競争です。猫の手も借りたいのです。ぶどう園の主人は早朝から日暮れまで労働者を求めておおわらわです。それぞれの時間に雇われた労働者は3つの違った言葉で仕事場に遣わされて行きました。早朝5時に雇われた人々は1日1デナリの賃金を払う約束で仕事に行きました。次に9時ごろに雇われた人は「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言われました。所がその後雇われた人々は賃金について何の約束もないまま、とにかくぶどう園に行き、働きました。そして夕方6時頃日暮れと共に仕事を終えた彼らは皆主人の代理をする監督から賃金を貰って帰ることになりました。私たちの常識では逆ではないかと思うのですが、この主人は監督に労働時間の短かった人から遡って賃金を支払うようにと命じました。そして誰も彼も同じ賃金が支払われました。13時間も働いた人々は主人に不平を漏らしました。しかし、主人は「わたしは約束を違えてはいない。当然のことをしたまでだ。文句を言わずに1デナリを持って帰りなさい」と相手にしません。考えてみると、一見不合理なようで、これほど理に適った給与計算はありません。13時間暑い中を辛抱して働いた人の理屈はもっともです。しかし、主人の頭の中には日暮れ近くまで誰も雇ってくれないまま立ち尽くしていた人々の心情を思うと同じ額の賃金を払ってやりたいのです。彼らも朝早くから誰かが雇ってくれるまで焦る心を抑えて暑さの中を忍耐しながら待っていたのです。彼らの家族にとってもその日必要な生活費を待つ心は同じなのですから。 しかしこの美談も知れません。その真の意味を知ろうとしないなら、次の日から皆家でごろごろ寝そべって、夕方の5時になってようやくぶどう園に来ることになるでしょう。

 

 これは天国について教える譬え話だと言うことをもう一度確認しておきましょう。信仰の世界とはこういう世界なのです。クリスチャンの中には先日伝道礼拝でお話に来て下さった岸義紘先生のようにお母さんのお腹の中から教会に来て、生まれてからも教会から離れないで早くからクリスチャンになり、牧師になって何もかも捨てて一生懸命神さまのために働き通してこの世を去って行く人がいます。

 この譬え話はマタイによる福音書にだけ見られます。マタイにとってそれほど強烈に心に焼き付く主の物語であったと言えます。なぜでしょう。これは想像ですが、彼の以前の職業に関係があるかも知れません。彼は徴税人でした。当時のユダヤ人はヘロデという国王を戴いてはいましたが、厳密に言うとヘロデは国王ではなく、領主という程度の地位でした。つまりユダヤ人はある程度の自治を許されていましたが、実質はローマ帝国の属国に過ぎなかったのです。当然国民から徴収した税収もその大半をローマに吸い取られていました。ですからマタイのような徴税人はユダヤ人の目には、ローマの飼い犬のように映るのです。宗教的にも汚れた者として選民の枠の外に置かれてしまいます。礼拝に行っても周囲から白い目で見られていることを感じないではいられず、「遠く離れて立つ」(ルカ18:13)しかないのです。マタイのような者の為にはきっと地獄の釜の蓋が開けられているというのがユダヤ人の評価でした。恐らく彼自身も半ば諦め、半ば開き直り、どうせ地獄に落ちると定められているのなら、太く短くしたいようにして生き、したいようにして死んでやる、そんな生活であったと思います。所がある日、主イエス・キリストが彼の目の前に立ち、「わたしに従いなさい」と言って、主の弟子の一人に加えて下さったのです。地獄の釜の蓋が開いていると諦めていたのに、主イエスは彼に救いの御手を伸べて下さったのです。だから今日読む主イエスの譬え話は彼にとって他人事と聞き流せないのです。夕方の5時にやっとぶどう園に導かれた人と同じように、自分こそ誰よりも後から主の弟子とされたのに、他の弟子と同じように1デナリの賃金、永遠の命の賜物を与えられた者であると受けとめたからこそ、この物語をここに書き記したのではないでしょうか。

 福岡市内に鳥飼バプテスト教会があります。昔、獄中でイエス・キリストを信じて救われた死刑囚がいました。やがて刑の執行がなされました。彼には家族があったのかどうか分かりません。或いは何かの事情があったので、誰も遺体の引き取りができなかったのかも知れません。そんな中、一人の女性がその死刑囚と獄中結婚していることが分かりました。彼女は鳥飼バプテスト教会のメンバーだったので、教会は彼の遺体を引き取り、葬儀をし、遺骨を墓地ができるまで会堂の一部に保管しました。さながらイエスさまと共に十字架につけられた犯罪人のように、死の直前に救われた人です。彼もまたイエス・キリストを信じたと言っても獄中にあっては神さまのため、また教会の為に何の働きも出来ないまま死んで逝ったのです。しかし主は言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と。

 このようにこの地上の時間の長さにかかわらず、その信仰によって天国で受ける賃金は同じ1デナリ、永遠の命なのです。早くからイエス・キリストを信じた人も、いまわの際にイエス・キリストを信じた人も神さまから受ける賜物に何の優劣もありません。罪を悔い改めるのに遅すぎると言うことはないのです。一人一人に与えられている地上の時間は丸ごと1デナリという救いの恵み、永遠の命を頂く為に与えられている時間なのです。あなたも今すぐにぶどう園に行って下さい。残された人生の限りを尽くして主のご用にあなた自身を用いて貰ってください。しかし「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべき」でしょうか(ローマ6:1)。神は恵み深い方だからイエス・キリストを信じるのはもっと後でよい。人生の夕方になってからでよいと考えるのは間違いです。主イエスの譬え話の時間を今から先のことと考えるとそう言う理屈が頭に浮かびます。そうではありません。今は明け方5時のような幼い世代かも知れませんが、人の命はあっと言う間に夕方の5時を迎えます。気が付いたら残り少ない老境にさしかかっていたと言うことです。長い人生頼るべき何も持たず、今は人生の終わりを空しく待つのみと言った人のことです。この世は老人を必要としてくれません。誰も振り向いてはくれません。ただイエス・キリストだけが「あなたを必要としている。わたしに従ってきなさい」と呼びかけて下さるのです。今この主イエスの懐にあなたも飛び込んで下さい。 

 次に先の者になっているクリスチャンに対する主の恵みの警告にも耳を傾けましょう。ある人は言うでしょう。「クリスチャンになったら日曜日は教会に時間をとられるし、献金をしなければならないし、奉仕もしなければならない。何が楽しくて日曜日までそんなに忙しく働くのか。だから私は決してクリスチャンなどになりたくない」と。しかし主は言われます。この世の仕事と神のための仕事を同じ次元で考えてはならない」と。この世の仕事はやがて消えゆくもののためですが、神さまのための奉仕は永遠の命に関わる仕事なのです。全てが伝道につながっていますから、人が本当に生かされる仕事なのです。しかしこの尊い仕事場である教会の中にある者にも警告が与えられています。

 クリスチャンホームに生まれて幼いときから聖書を学び、クリスチャンとされた人、或いは人生の途上、キリスト教会に導かれてクリスチャンとなって信仰生活30年、40年、50年と神さまのぶどう園である教会で熱心に奉仕しながら「暑い中を辛抱して働いた」ベテランクリスチャンであっても、「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と1デナリ以上の報いを期待することは間違っています。信仰者の受ける報いは功徳ではありません。「これだけ働いたのだからこれだけ報酬を受けるのは当然だ」と自分で神さまからの褒美を見積もってはなりません。全ては「気前よく」与えて下さる主の恵みによるものと感謝を忘れてはなりません。教会生活で一番恐ろしい落とし穴は「慣れ」です。「手慣れた奉仕」は「だらけた奉仕」になりやすいのです。「馴染み深い交わり」も「礼を失する交わり」になりやすいのです。最後に使徒パウロの言葉を引用します。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているというわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12−14)

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたのみ名を崇めます。

 多くの人は今神も信じられず、希望もなく厳しい社会をさまよっています。多くの人は人の前では強がりますが、心の中では自分の人生の終わりはどんなだろうかと脅えながら生きていることでしょう。そのような人々にあなたは今日も「ぶどう園に行きなさい」と招いて下さいますからあなたの御名を崇めます。あなたのもとにこそ本当に人生の意味と目的を見出せるからです。あなたのもとにあってこそ私たちの人生を新たなものとして頂くことが出来るからです。私たちは今あなたのお言葉に従ってあなたのぶどう園に行きます。主イエス・キリストの教会こそあなたの備えておられる本当の仕事場だからです。ここにこそ、あなたが備えて下さっている1デナリが用意されているからです。

復活の主、永遠の命の主イエス・キリストのお名前によってこの祈りをあなたの御前にお捧げします。アーメン。


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