【主日礼拝メッセージ】 2001年11月4日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 旨】
人が一番孤独になる時、それは死の直前だと言われています。あり余るほどの財産に囲まれていてもそれが何になると言うのでしょう。国民栄誉賞や文化勲章、またさまざまな感謝状が壁一面に掲げられていても、それはただ空しくその人を見送るように眺めているだけです。ひとかどの地位につき、権力の座にあっても、今はそれを誰かに譲り渡すしかないのです。愛する家族がしっかり手を握ってくれていても、どんなに温かい言葉をかけてくれても独りぼっちで死んで逝かねばなりません。そこから先は誰もついていって上げることはできないのです。死とはそれほど孤独なのです。本当に独りぼっちなのです。恐らく死者にとってその瞬間は家族の顔も財産も地位も名誉も権力も何も目に入らないでしょう。その人の脳裏に走馬燈のように甦ってくるのは犯した多くの罪の日々です。しかしその最も孤独な瞬間に主イエス・キリストを信じる人はきっと、至聖、至高の天上からこのみ言葉を聞くでしょう。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:18)と。
キリストが十字架に死なれたのは、私たちの罪を背負って私たちのために、私たちが受けるべき神の罰をその身に担って下さったと言うことです。キリストが復活されたのは、罪人をこの世で赦すだけではなく、永遠の命の御国へと伴うためです。死を目前にしてこの世で最も孤独な瞬間を迎えたとき、家族の手のぬくもりよりもっと温かい主の御手が彼を引き上げて下さるのです。それ故に彼はもはや孤独ではありません。彼はキリストと共に死にましたが、これからは復活のキリストと共に神との交わりに生きる者とされるのです。「死と生の主であられるイエス・キリストが共にいて下さる」という確証を得ること以上に心強いことはないのです。
今年は永眠者名簿にご紹介しておりますように、2名の故人を加えて13名の召天者記念礼拝を捧げています。この礼拝のために、今日この席にご遺族の方々が出席なさっています。
- 高木家から高木昭之兄
- 関野家から岡本綾子姉
- 沢田家から鈴木美子姉
- 白石家から吉野輝雄兄・純子姉、まき子姉
- 角柄家から角柄タツ子姉
- 服部家から服部美枝子姉です。
この5名の方々と共に召天者を記念して主に礼拝をささげましょう。
新潟栄光キリスト教会に山添淑子さんという人がいます。毎週遠いところからバスに乗って教会に通い、当時財務執事や教育執事として大いに牧会を助けて下さいました。その忠実さには頭が下がる思いでした。私がその教会を辞任してからでも15年は経ちますから、もしかしたら今頃は80歳代に入っていらっしゃるのではないかと思いますが、風の便りでは今も現役の執事として活躍なさっているとのことです。その年は山添姉の記憶にもないほど記録的な大雪でした。そんな大雪の中も休まずに祈祷会に来られたので、「雪国の人は強いですね」と自分もその土地に住んでいながら他人事のように愚かな問いかけをしてしまいました。しかし彼女はにっこり笑って一言、「でも春は来ますから」と答えるのでした。今は厳しい冬だけれども春は必ず来る。この言葉に私は感動しました。雪国に住む人のたくましさの秘訣がここにあったのです。
仙川キリスト教会が晩秋の11月に召天者記念礼拝を捧げる意味もこの言葉と重ねてみると意味を感じます。秋は一つの命の終わりを暗示します。そして厳しい冬が到来するように全てが沈黙する死の時を迎えます。秋は私たちに人の死の現実を心に刻むべきことを教えてくれます。人はいつまでも生きながらえることのできない者であることを思い起こさせてくれます。しかし、聖書は言います。「主にあっては肉体の死は終わりを意味しない」と。雪国にあって「でも春は来ます」という言葉とどこか響きが似ていると思いませんか。
戦後間もなくアメリカ南部バプテスト連盟の兄弟姉妹たちの尽力で京都市の北部に広大な土地を購入してそこに「日本バプテスト病院」が建てられました。日本には「医は仁術なり」という美しい言葉がありますが、この病院は設立の当初から「キュアからケアへ」を合い言葉に、体の医療だけでなく、心の癒しと解放を目指そうと開院しました。キリストの心を心とすることを全面に打ち立てて、キュアと同時にケアを目指して、病院に牧師を置き、医療スタッフの一人として患者と向き合うことを始めたのです。
聖書に「人の霊は病にも耐える力がある。沈み込んだ霊を誰が支えることができよう。」(箴言18:14)とあります。キュアは大切です。治療は大事です。しかしそれと共に、いやある時はそれ以上にケアが求められるのです。そしてケアは患者さんだけに必要なのではありません。時には付き添っている家族のケアこそ大事なのです。まして最善の治療、精一杯の介抱の甲斐もなく患者が遂に帰らぬ人となったときの家族の嘆きはどれほどでしょう。もはやこの世のいかなる知恵と力を持ってしてもこの家族を立ち上がらせる手段はありません。霊を支えるのは神のみ言葉だけです。
人は、「でも春は来ます」という確信が欲しいのです。命の冬を通ってもそれで終わりではなく、復活の朝、甦りの春があるという確信なしに人の霊を支えることのできるものは何もありません。その支えのみ言葉がここにあります。
「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」
人が一番孤独になる時、それは死の直前だと言われています。あり余るほどの財産に囲まれていてもそれが何になると言うのでしょう。国民栄誉賞や文化勲章、またさまざまな感謝状が壁一面に掲げられていても、それはただ空しくその人を見送るように眺めているだけです。ひとかどの地位につき、権力の座にあっても、今はそれを誰かに譲り渡すしかないのです。愛する家族がしっかり手を握ってくれていても、どんなに温かい言葉をかけてくれても独りぼっちで死んで逝かねばなりません。そこから先は誰もついていって上げることはできないのです。死とはそれほど孤独なのです。本当に独りぼっちなのです。恐らく死者にとってその瞬間は家族の顔も財産も地位も名誉も権力も何も目に入らないでしょう。その人の脳裏に走馬燈のように甦ってくるのは犯した多くの罪の日々です。しかしその最も孤独な瞬間に主イエス・キリストを信じる人はきっと、至聖、至高の天上からこのみ言葉を聞くでしょう。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:18)と。
キリストが十字架に死なれたのは、私たちの罪を背負って私たちのために、私たちが受けるべき神の罰をその身に担って下さったと言うことです。キリストが復活されたのは、罪人をこの世で赦すだけではなく、永遠の命の御国へと伴うためです。死を目前にしてこの世で最も孤独な瞬間を迎えたとき、家族の手のぬくもりよりもっと温かい主の御手が彼を引き上げて下さるのです。それ故に彼はもはや孤独ではありません。彼はキリストと共に死にましたが、これからは復活のキリストと共に神との交わりに生きる者とされるのです。「死と生の主であられるイエス・キリストが共にいて下さる」という確証を得ること以上に心強いことはないのです。
愛する兄弟姉妹、今あなたが目の前にしている写真の人々はどこでどのように彷徨っているか分からないと言うのではありません。孤独ではありません。キリストが彼らの主となられたからです。聖書の言葉を借りて言うなら、「彼らは死にましたが、その信仰によって今も語っている」(ヘブライ人への手紙11:4)のです。何と語っているのでしょう。恐らくこう言っているのです。「あなたはいつまで神とこの世を天秤にかけて迷っているのか。神に捨てられて絶望しながら孤独の末路を送りたくなければ、今わたしのように、イエスさまを信じて彼と共に生き、彼と共に死に、彼と共に復活の朝を迎える者となりなさい」と。
召天者記念礼拝とは何でしょう。故人となった家族を思い起こして再び悲しみに暮れることではないはずです。イエス・キリストを信じ抜いて勝利の凱旋をして行ったこれらの諸先輩に倣う者となりたいと心に期する者を感じる時とすることではないでしょうか。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
私たちは今あなたの御許にある13名の兄弟姉妹を記念してここにあります。何年前に召されても、ご遺族にはつい数日前のことのように故人を思い起こしておられることでしょう。寂しさを禁じ得ないでしょう。この世に生きる者が寂しいので、ともすると、故人も寂しがっているのではないかと錯覚を起こしてしまいますが、今日あなたが私たちに与えて下さったみ言葉によって、故人は決して寂しがってなどいないことを確信することが出来ました。主よ感謝します。彼らは寂しがっているどころか、今もその信仰によって私たちに語っていることさえ知りました。
そうでした。私たちはついこの世のことに重きを置いてこの世サイドでしか故人を思うことが出来ていなかったのでした。故人を思うことの中であなたを思うのではなく、あなたの栄光を讃美することの中で故人と私たちがその信仰によって結ばれていることを確信できますように。これこそ故人が一番に願っていることであることをいつも心に刻みつけておくことが出来ますように。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。