【主日礼拝メッセージ】 2001年11月18日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【主日礼拝メッセ−ジ要約】
この世は競争社会です。企業は生き残りをかけて統合・合併を繰り返し、それによってライバル会社を牽制しています。そこで働く人々も企業の歯車の中で生き残っていくために、上司や同僚との人間関係でストレスを溜め込んでいます。優秀な部下が入ってくると自分の椅子が危ないのです。家を守る家族は隣の家に蔵が建つと自分の腹が立ちます。これが社会の現実です。心も体もぼろぼろになっています。それにも関わらず、私たちはいつの間にかこう言う世の中を当たり前のことと思いこみ、この競争に負けまいとますますがんばってしまうのです。そして教会の前を通りかかり、ふらっと教会のベンチに座って見ました。外から見る教会は聖い集団のように思われても、果たしてその実態はどうでしょうか。この世に疲れているのに頭の切り替えがなかなかできないで、言葉には出さなくてもつい世の知恵や立場を教会に持ち込み、偉くなりたいという意識が働いてしまいます。どこかで「俺が、俺が」、「私が、私が」と自己主張をしてしまうのです。
主イエス・キリストは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われました。この教えには世の知恵とか手法を持ち込む余地はありません。どろどろとした世の中にどっぷり浸かり込んでしまわない為の大切なみ言葉です。「あなたがたの間では」と主イエスは言われました。つまり教会ではと言うことです。外から見えるだけでなく、内側からこのみ言葉でもって清めて頂かなければなりません。教会はこのどろどろと汚れた世の中からの逃れ場です。オアシスです。こんな清いところがあったのかと魂に休みが与えられます。キリストの弟子として歩みたいという願いが起こされます。この世の人々が競争社会を生き抜く為に世の知恵を駆使し、またしのぎを削っている時に、キリスト者は主イエスの模範に倣い、主イエスから賜った知恵をもって再びこの世へと遣わされて行くのです。主イエスが私たちに与える知恵はこの世でどのような地位や立場に置かれても、支配することより仕える自由へと導いて下さいます。
主イエスはこれまで御自分の死について度々予告してこられましたが、それは十字架による死と復活の予告です。一度目の時は、「それでもわたしに従う覚悟があるか」と問いかけておられます(16:21−28)。二度目には十字架の死と復活こそ「神の子たる者が示す証である」と言われました(17:22−27)。そして今朝、3度目の予告から教会とは何かと言うことを教えて下さいます。
一、教会は十字架を掲げる群れ
第一にキリストの教会は十字架を高く掲げる群れです。
三浦綾子の作品に「ひつじが丘」という小説があります。この作品は「氷点」同様、人間の罪がテーマになっています。主人公広野奈緒実は牧師の娘で、売れない画家と結婚していましたが、夫婦の関係は既に冷え切っていました。夫の不行状が赦せないのです。確かに大酒飲みで女性にだらしないどうしようもない夫ですが、その彼もいつしか神を畏れる者となり、心に微妙な変化が芽生えています。お酒を断って早4ヶ月になろうとしています。遅蒔きながら妻だけを愛してゆこうという決意がそうさせたのです。しかしそのような夫の内面の変化に気付かない妻の心は益々冷えてゆくばかりです。ある日、彼は自分の犯した不始末の決着をつけるために出かけました。訪問先で無理に勧められたお酒を−実はそれには睡眠薬が混じっていましたが、そんなことを知らない彼はこの一杯のお酒で彼女が赦してくれるのならと飲み干し、そして帰路につきました。 バスはなかなか来ません。流しのタクシーも年末の、しかも夕暮れと言うこともあって見つかりません。その内に睡眠薬が効いてきて彼は遂に雪の路上で眠り込み、そのまま凍死してしまいました。彼の死後、奈緒実は遺作となった作品を見てその場にくずおれてしまいました。十字架に釘付けられたキリストの頭と手足から血潮が流れ落ち、その十字架の下で血潮を浴びながらひざまずいている一人の男が描かれています。紛れもなくそれは画家自身の姿なのです。居合わせた人々もその絵を見て息を呑み、「これは彼の信仰告白だ」と囁くのでした。
私はこの小説を読んで改めて十字架の力を感じました。そして教会とは何か、礼拝堂の屋根の上に十字架を掲げることの意味は何なのかを考えさせられました。宗教画家が自分自身の信仰告白として十字架のキリストを描くように、教会が礼拝堂の屋根の上に十字架を掲げるのは、勿論世の人に対する物理的目印の一つには違いありませんが、それ以上に世に向かって「私たちこそあの聖い神の御子イエス・キリストを十字架に釘付けてしまった罪人の頭です」と証しているのです。この世に向かって、「まだ救いを知らない人々よ、ここに神の愛があります。あなたは神に愛されているのです。あなたの罪も十字架のイエス・キリストによって既に赦されているのです。私のような者でさえ赦され、救われているのですから」と証しするために礼拝堂の屋根に十字架を掲げるのです。
二、教会は魂の休み場
第二に、教会は私たちの疲れた心と魂の休み場です。
この世は競争社会です。企業は生き残りをかけて統合・合併を繰り返し、それによってライバル会社を牽制しています。そこで働く人々も企業の歯車の中で生き残っていくために、上司や同僚との人間関係でストレスがとれません。優秀な部下が入ってくると自分の椅子が危ないのです。家を守る家族は隣の家に蔵が建つと自分の腹が立ちます。これが社会の現実です。心も体もぼろぼろになっています。それにも関わらず、私たちはいつの間にかこう言う世の中を当たり前のことと思いこみ、この競争に負けまいとますますがんばってしまうのです。そして教会の前を通りかかり、ふらっと中に入ってベンチに座ってみたのです。外から見る教会は聖い集団のように思われても、果たしてその実態はどうでしょうか。この世に疲れているのに頭の切り替えがなかなかできないで、言葉には出さなくてもつい世の知恵や立場を教会に持ち込み、偉くなりたいという意識が働いてしまいます。どこかで「俺が、俺が」、「私が、私が」と自己主張をしてしまうのです。
主イエス・キリストは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われました。この教えには世の知恵とか手法を持ち込む余地はありません。どろどろとした世の中にどっぷり浸かり込んでしまわない為の大切なみ言葉です。「あなたがたの間では」と主イエスは言われました。つまり教会ではと言うことです。外から見えるだけでなく、内側からこのみ言葉でもって清めて頂かなければなりません。教会はこのどろどろと汚れた世の中からの逃れ場です。オアシスです。こんな清いところがあったのかと魂に休みが与えられます。
三、教会は僕として仕える群れ
第三に、教会は互いに自分を僕の立場に置くことの自由さを備えている群れです。教会はそこにどっかりと腰を下ろすことのできる永遠の休み場ではありません。
この聖い群れの中で本当に生きる知恵と力を頂いて、どろどろとした世の中を改革して行く平和の使者とならせていただく、それが教会に与えられた使命なのです。
使徒パウロはこの主イエスの教えを受けて、「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と言いました(气Rリント9:19)。教会とは仕える自由を学ぶところです。
主イエスのみ言葉、そしてこの使徒パウロの教えを人に要求することではなく、自らが実践することが求められる、それが教会です。この世の人々が競争社会を生き抜く為に、この世の知恵で世渡りの術を駆使し、またしのぎを削っている時に、しかしキリスト者は主イエス・キリストの模範に倣い、主イエスから賜った仕える自由さを頂いて再びこの世へと遣わされて行くのです。主イエスが私たちに与える知恵はこの世でどのような地位や立場に置かれても、支配することより仕える自由さへと導いて下さいます。
ある壮年が教会に導かれてきました。彼の魂はまるで渇いたスポンジが水を吸い込むようにイエス・キリストの救いのみ言葉を受け入れ、間もなく信仰告白をしてバプテスマを受けました。彼はある職場で特に重要な地位にありましたが、救われてから職場での態度はがらりと変わりました。海千山千の政治家相手の仕事ですが、彼はいつもイエス・キリストだけを見上げて誠実に一つ一つの仕事をこなして行きました。初めのうち彼に何か魂胆があるのではと警戒していた周囲の目も変わり、今まで以上に彼を信頼するようになりました。時折私たち夫婦を職場に案内してくれましたが、執務室の机の上には聖書と伝道用トラクトが外の信仰書と一緒に置かれていました。勿論教会内の生活は他の人々の模範でした。
イエス・キリストの十字架はこんなにも人を変える力となるのです。同じ職場であっても救われる以前と救われてからでは仕事に対する姿勢が全く違ってくるのです。周囲に与える影響もまた異なってくるのです。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
「あなたがたの間では皆に仕える者になり、皆の僕になりなさい」と主イエスは言われました。私たちはこの世ではまるっきり反対の生き方を是としてきましたが、この世で成功する秘訣は支配すること、権力を振るうことではなく、仕える自由さを持つことであることを学びました。しかし昨日までの私を引きずったままではこの聖いみ教えに従うことはできません。先ずこの罪深く傲慢さの故に汚れた私の霊と心とからだをお赦し下さい。私たちも今十字架のイエスさまの下にひざまずいて罪を悔い改めますから、私たちの上にもあなたの独り子、イエス・キリストの血潮を注いで下さい。先ずこの教会に於いて仕える道を学ばせてください。そしてもう一度この世にお遣わし下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン