【待降節第三礼拝メッセ−ジ要約】 2001年12月16日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 約】
現代社会は様々な情報に溢れています。しかしその内のどれくらいのものが真実で受け入れるに値する内容でしょうか。この不確実性の時代にも神はただ一つ、確かな情報、受け入れるに値する真実な言葉を与えて下さいました。それが聖書であり、聖書の中心であるキリストです。心を開き、耳を傾けて神さまのメッセ−ジを頂きましょう。
パウロは当時教会の間で言い交わされていた信仰告白を改めて紹介しながら、これを個人的な信仰告白の機会として用い、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と言います。彼は教会の中で偉大な働きをすればするほど、イエス・キリストに出会うまでの罪の思い出が甦り、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と告白します。彼は自分の過去を忘れたくても忘れることができません。それは聖書も神も知らずに犯した罪ではないのです。それどころか日々キリストの出現を待ち望んでいたのです。しかし、結果的には取り返しのつかない罪を犯していました。具体的に言うとキリストの教会を迫害するという恐るべき罪です。クリスチャンを捕らえては拷問にかけ、殺害することに同意し、或いは命令する立場にありました。しかし神はそのようなパウロを罰する代わりに、復活のキリストに出会わせ、救って下さいました。そして歴史に残る伝道者として用いて下さいました。
パウロはこの恵み深い体験を大切に温めていましたから、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と言います。言葉を換えて言うなら、「わたしのような者を救って下さったキリストはあなたをも必ず救って下さいます」と。今このメッセ−ジに耳を傾けているあなたも、どうぞ頑なな心を捨てて、過去に犯した一切の罪を正直に認めて下さい。そしてそれを神さまの御前に言い表して悔い改めましょう。キリストはそのあなたを救うために世に来て下さったのです。
メッセージ:高橋淑郎牧師
クリスマスを待ち望んで三度目の主日礼拝です。私たちの暗い心に灯された希望の光が益々明るさを増しています。来週は教会カレンダーに従うならば、4本目のローソクに火を灯し、2日後のクリスマスに備えてクリスマス・アドベント第四の主日礼拝を捧げるはずなのです。しかし私たちの教会もそうですが、多くの教会ではこの日にクリスマス礼拝を献げ、またお祝いすることにしています。ですから今日は事実上最後のクリスマス・アドベント礼拝というわけです。そこでクリスマス・アドベント最後の今日、イエス・キリストがどのような意図をもってこの世界に生まれてくださったのか、それを学ぶことにします。
一、クリスマスは世の救いのため
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と使徒パウロは言います。確かにこの世の中には多くの情報、多くの言葉が氾濫しています。そしてその多くは不確かです。新聞は果たして真実を書いているのでしょうか。TVはありのままの映像を流しているのでしょうか。疑えばきりがありません。先週の木曜日夕方、TVによるニュース番組で、3ヶ月前の9月11日に発生した「世界貿易センタートゥインビルに飛行機毎体当たりしたテロ事件」に何らかの関与をしていたのではないかと言われていたオサマ・ビン・ラディン氏について、それを裏付けるようなビデオテープを発見したと言うことでアメリカ合衆国政府が公表しました。改めてショックを受けました。殊にラディン氏ともう一人の人が笑顔をにじませながらその事件を回想している光景には吐き気さえ催したほどです。しかしイスラム諸国の中には、「あれはアメリカ合衆国C I Aが手を加えたもので、真相は分からない」と懐疑的です。真偽のほどはどうなのでしょうか。確かに今の時代はCGとか、バーチャル リアリティとか、コンピューター操作一つで、本当は実在しないものでも、あたかもそこにあるかのように作り上げることができます。
ただ、キリスト・イエスが罪人を救うためにこの世に来てくださったという聖書から流れてくる情報だけが昔も今も不変の真理であり、且つ真実で、そのまま受け入れるに値します。何故なら、新約聖書の著者たちは聖書を書いた時期も場所も勿論人も異なっているのに、更に著者同士がお互いに聖書を書くに当たって相談できないほど離れたところにあって、しかも何の矛盾もなくイエス・キリストの御生涯を書いているからです。パウロがローマでこの手紙を書いている頃には、マタイは遠くインドにあなたって、そのままそこで殉教したと言うことです。ヨハネがパトモスの島、もしくはヨーロッパのどこかで福音書を書き始めた頃、パウロは既にこの世の人ではありませんでした。このように時も所も人も異なるのに、新約聖書の主人公イエス・キリストについてはどの書を読んでも不思議なほどに一致しています。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と使徒パウロは請け合います。どうしてそう言いきることができるのでしょうか。疑う人は疑って良いのです。信仰は強要されるものではないからです。しかしこれは信じて良い言葉、そのまま受け入れて良い真実な言葉です。何故ならこれは主イエスご自身が「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカによる福音書5章32節)と言われたお言葉と一致するからです。
二、この世に罪なき人はない
次に、この_テモテ1:15から私たちは二つのメッセ−ジを聴くことが出来ます。それは_この世に罪を犯さなかった人はいない。_しかしいかなる罪人も救われるというメッセ−ジです。
パウロは古くから言い交わされ、既にテモテも当然知っているこの素晴らしい信仰告白を改めて紹介しながら、これを個人的な信仰告白の機会として用い、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と言うのです。パウロは教会の中で偉大な働きをすればするほど、イエス・キリストに出会うまでの自分の思い出がよみがえってくるのです。そして「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と告白します。彼は自分の過去を忘れたくても忘れることができません。それは聖書も神も知らずに犯した罪ではないのです。キリストを否定していたわけではありません。それどころか日々待ち望んでいたのです。この世に生まれ落ちた時からイスラエル人として両親から旧約聖書の律法を基準として厳しく躾られ、育ちました。学齢に達してからは会堂で律法を更に詳しく学ぶ生活でした。将来を嘱望された彼は小アジアのタルソからエルサレムに留学を許され、当代随一の学者ガマリエルの門下生として英才教育を受け、ひたすらエリート街道をまっしぐらの青年サウロでした。聖書の神ヤハウェのために熱心でした。熱心になればなるほど彼の心に激しい憤りが湧いてきます。それはキリスト教会の存在です。聖書を読むことでは同じように見えるキリスト教会ですが、ナザレのイエスをイスラエル人が待ち望むキリストであると触れ回るキリスト教会の存在は彼にとって見逃すことのできない由々しき問題です。彼にとってキリスト教は異端の宗教でした。キリスト教会は増える一方です。何とかしなければならないと一念発起してキリスト教会撲滅作戦を打ち立て、その先頭に立って迫害をしました。時には拷問にかけ、時には死に至らしめました。キリスト者はサウロを畏れてシリアに国外逃亡を図りました。その逃亡を防ごうとダマスコの同胞にキリスト者を発見次第エルサレムに連れ戻すようにと当局からお墨付きの書簡を貰って意気揚々、鼻息荒くダマスコに向かって出発しました。しかしもうすぐダマスコと言うところで復活のキリストが彼の目の前に顕れて彼に言われました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。ノわたしはあなたがたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使徒言行録9:4−6)。その時、イエスさまからこれまでのサウロと言う名を捨てて、これからはパウロと名乗りなさいと言われました。古い罪人のサウロに死んで、救われ、新しくされたパウロとして残された人生を神さまのために使い果たしなさいと召命を受けました。彼はこの瞬間自分の愚かで頑迷な罪に気が付きました。聖書の真理はベツレヘムに生まれ、ナザレに育ち、ゴルゴダで十字架に死んで葬られ、3日目に墓から復活されたイエスこそ待ち望んでいた真のキリスト、救い主であることを知らされたのです。彼はダマスコ途上で神に打たれて死んでもおかしくなかったのです。しかし神さまは復活のイエス・キリストによって彼を救って下さいました。その時から彼はかつて迫害していたキリスト教会の仲間に入れてもらい、生涯かけてイエスこそ真の救い主、キリストであると聖書を通して告げ回る伝道者とされたのです。これが彼自身「わたしはその罪人の中で最たる者です」と告白する理由なのです。別訳の聖書には「わたしはその罪人の頭である」と書かれています。
ある人はここを読んでも別段感銘を受けることはないかも知れません。私はパウロほど悪いことをしてはいないから、救われなくて良いというかも知れません。では次のイエス・キリストの御言葉はどうでしょうか。「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコ7:21−23)。これをまとめると、人は実行に走る手足の罪、見えるものによって犯す目の罪、聞こえてくるものによって犯す耳の罪、汚れたことを語る舌の罪、汚れたことを考える思いの罪があると言うことです。これならあなたも身に覚えがあるのではないでしょうか。
全ての人は聖なる神の御前に罪人であるというのが今日の御言葉による第一のメッセ−ジです。
第二のメッセ−ジは更に優って憐れみ深いものです。パウロは自分の経験に照らして、「神はどのような罪人であっても救うことが出来る」と言います。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われたイエスさまのみ言葉をもう一度思い起こしてください。クリスマスは罪人を救うために神の独り子が人としてこの世に来て下さったという意味です。病人のために医者が駆けつけるように、イエスさまは救いを求める罪人のもとに来て下さいました。「罪人を救うために」とパウロは言います。と言うことは罪人でない人は救われません。自覚症状のない人は自分が病気であるとは認めません。その人は医者を必要としないのです。同じように自分が罪人であるという自覚のない人はイエスさまのもとに近づき、救いを求めることはしないでしょう。パウロが「わたしはその罪人の中で最たる者です」と言った言葉を心に留めてください。そうすればあなたの方からイエスさまの下に謙って救いを求めずにいられないはずです。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言うみ言葉を感謝します。これがクリスマスの本当の意味であったことを今朝改めて教えて頂いたからです。そして使徒パウロの「わたしは、その罪人の中で最たる者です」という告白に感動しました。この言葉によって頑ななわたしの心がとかされたからです。わたしは私こそ罪人の頭だと認めます。そしてあなたの御前にその罪を赦していただきたいと願っています。次週はいよいよクリスマスです。私たちの罪を救うためにこの世に来て下さったあなたの御子イエスさまの御降誕を心から感謝し、またお祝いします。。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン