【礼拝メッセ−ジ要約】 2001年12月30日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 約】
年末になるとお寺でも神社でもすす払いというのでしょうか。門徒さんや氏子さんが境内の敷地を、また建物の内外を大掃除します。そのようにして新年を迎えようという信者さんの熱気が伝わってきます。私たちの教会でも礼拝後みんなで会堂の内側も外側も美しくして新年に備えることになっています。先ず神の宮を清めようと言う志はきっと神もお喜びのことと思います。しかしそれだけで良いのでしょうか。
12月31日からカウントダウンし、その瞬間を迎えた時、「おめでとう」と言い交わしながら、しかし私たちは先ず主の宮に来てしなければならないことがあります。「礼拝」です。礼拝を捧げることによって私たちは私たちの内なるものを清めていただかなければならないのです。エゼキエルは、「この日、先ず主の宮に集まり、無傷の雄牛の子一頭を献げなさい」と命じました。それをもって聖所を清めなさいと言うのです。元旦礼拝の意義は何でしょうか。礼拝を通して主の宮を清めることであると言うのです。年末に会堂を綺麗にするだけで主の宮が本当に清められたとはいえないと言うのです。
み言葉には格別な調味料が加えられているわけではありません。それは時に苦菜のようです。イースト菌のないパンのようなものです。血の気の失せた動物の肉のように呑み込みにくいものです。しかしこの糧を受けることで、私たちの心は主の御心に近づけられていることを知るのです。この礼拝を通して新約聖書に記されているように、私たちのからだが神の宮であって、何よりもまず清められる必要があるものであることを知るのです(气Rリント6:19)。元旦礼拝に為すべき事、それは自分自身を生きた聖なる供え物として神に献げることです。それによって私たちの霊と心とからだがリフレッシュされて、新しい年を迎えることができるのです。
メッセージ:高橋淑郎牧師
年末になるとお寺でも神社でもすす払いというのでしょうか。門徒さんや氏子さんが境内の敷地を、また建物の内外を大掃除します。そのように美しくして新年を迎えようという信者さんたちの熱気がブラウン管越しに映し出されます。私たちの教会でもファミリー分級の後皆で会堂の内側も外側も美しくして新年に備えることになっています。そのように自分の家のことを二の次にして、先ず神の宮を清めようと言う志はきっと神もお喜びのことと思います。しかしそれだけで良いのでしょうか。
一、元旦礼拝の意義
エゼキエルはイスラエルの会衆に向かって「一月一日に、あなたは無傷の雄牛の子一頭を取って、聖所を清めねばならない」と命じました。勿論ユダヤ人のカレンダーと今私たちが用いているカレンダーとでは月日にずれがあります。エゼキエルの言う1月1日はユダヤ暦でニサンの月と呼んでいます。太陽暦で言えば、3−4月の頃を指します。モーセは「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(出エジプト記12:2)と命じましたから、それ以来ユダヤ人はニサンの月を信仰的な意味で一年の最初と定めてこの祭りを守っています。この祭りを「過越祭」と言います。キリスト教会ではイースターのお祝いに相当します。年度の切り替えとして相応しい時期と言えるでしょう。しかし私たちは同時に日本として太陽暦で言うところの1月1日を年の初めと言い、この月を正月と呼んでいます。新しい年を迎えるという意味でエゼキエルのメッセ−ジに耳を傾けたいと思います。
世間では12月31日から神社・仏閣に出向き、或いは富士山や高い山に登り、様々な祈りを捧げたり、初日の出を見ようと賑やかです。しかしどうしたことかキリスト教会は静かです。この教会でも歳晩祈祷会と言って大晦日に祈りの時を数年間持ちましたが、出席は皆無です。元旦礼拝の出席も低調です。これを牧師の愚痴としてではなく、今日の聖書に照らして聴いていただきたいのですが、年度初めの総会で一年の最初、1月1日の朝、つまり元旦に礼拝を捧げましょうと決議したことを思い起こし、今日の聖書に従って私たちは元旦をどのように迎えるべきかを考えてみる必要があります。
エゼキエルの教えに従うと、12月31日からカウントダウンし、その瞬間を迎えた時、「おめでとう」と言い交わしながら、しかし私たちは先ず主の宮に来てしなければならないことがあります。「礼拝」です。礼拝を捧げることによって、私たちは私たちの内なるものを清めていただかなければならないのです。エゼキエルは、「この日、先ず主の宮に集まり、無傷の雄牛の子一頭を献げなさい」と命じました。いや、モーセの時代に定められた礼拝を会衆に思い起こさせようとしました。それをもって聖所を清めなさいと言うのです。元旦礼拝の意義は何でしょうか。礼拝を通して主の宮を清めることであると言うのです。年末に会堂を綺麗にすることで主の宮が本当に清められたとはいえないと言うのです。私たちの教会が元旦礼拝を定めたことはこのみ言葉に照らして正しかったのです。定めた以上これを実行しましょう。そして主の宮を清めて頂きましょう。
二、元旦礼拝に為すべき事
元旦礼拝は主の宮を清めるという意義があるとエゼキエルは言います。「祭司は贖罪のいけにえの血を取って、それを神殿の門柱と祭壇の台となっている四隅と、内庭の門柱に塗らねばならない」と。これは出エジプト記12章の想起としての過ぎ越しの祭りを指します。正月のお祭りは3週間続けられました。ふっくらとしたお餅もお節料理もありません。種入れぬパン、苦菜を添えたスープ、神が定められた全焼の動物の肉、しかもこの肉は血の気のないものです。このメニューの食事を頂きながら、その間祭司も君主も等しく自分のため、また国民のために悔い改めと執り成しの祈りを捧げるのです。
勿論今日のキリスト教会がその全てを真似る必要はありません。しかしその精神は学ぶべきでしょう。会堂内外の掃除で足れりとしないで、私たちの内なるものがみ言葉によって清められることがこの礼拝の目的です。み言葉には格別な調味料が加えられているわけではありません。それは時に苦菜のようににがいです。イースト菌のないパンのように味気のないものです。血の気の失せた動物の肉のように呑み込みにくいものです。しかしこの糧を受けることで、私たちの心は主の御心に近づけられていることを知るのです。いけにえの血が門柱や礼拝器具に塗りつけられることによって、イスラエルの会衆は自分たちの罪がそれによって清められたと信じましたが、私たちは福音書によって、その血こそ本当は十字架に死んで下さったイエスさまを象徴していることを知ることができるのです。この礼拝を通して使徒パウロが言うように、私たちのからだが神の宮であって、何よりもまず清められる必要があるものであることを知るのです(气Rリント6:19)。元旦礼拝に為すべき事、それは自分自身を生きた聖なる供え物として神に献げることです。それによって私たちの霊と心とからだがリフレッシュされて、新しい年を迎えることができるのです。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
この年も世界は多くの罪を犯しました。殺戮があり、性の乱れがあり、不正な手段で富を得ようとする者があり、高齢者や幼い子どもたちが家庭や社会の犠牲となり、いわれなき差別に苦しむ人があります。来年はどのような年になるのかと不安と期待が入り交じっています。
主よ、この世界が犯した多くの過ちや罪をお赦し下さい。先ず主の宮として建てられたこの教会を清めて下さい。新しい年もこの教会を主の日の礼拝毎に苦菜と種入れぬパンと動物の肉のようなあなたのみ言葉を先ず受ける者として下さい。そして世の人々の為に救いの器として用いて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン