メッセージ:高橋淑郎牧師
「元日の大きな坂を下りけり」と言う俳句(ゝ石?作)があります。普段は馬や荷車或いは人々の往来で賑わう坂道も、正月ともなると、この道はこんなにも広かったのかと感じ入っている様子が見事に歌われています。この光景は特に東京のような大都会では今も顕著です。日本では「一月」と呼びますが、欧米ではJanuaryとかJanuarとか呼ばれています。これは古代ローマの「ヤヌス」という神を祭る月という伝統が産んだ名前です。ヤヌスは門を守る双面の神で、去年と今年の出入りを守る者とされています。
多くの人は12月25日が過ぎると、クリスマスが終わったと錯覚しますが、教会暦では1月6日の「顕現日」までをキリスト降誕節と呼んでいます。顕現日については6日の礼拝で詳しくお話ししたいと思いますが、ルカ2章は色々な人がクリスマスを経験したという記録の章です。最初は羊飼いでした。そして40日後にはエルサレムの宮で敬虔な神の人シメオンとアンナのクリスマス物語を見ることができます。今日はシメオンを通して神の御旨を学びたいと思います。
著者ルカは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」と敬意を込めて紹介しています。マタイによる福音書にはイエスの母マリアの夫ヨセフについて「正しい人であった」と紹介されています。幼子イエスを挟んで正しい人ヨセフとシメオンが向き合っています。ユダヤ人が正しい人という場合、それは聖書の教えに忠実な人で、当然その生活は清潔です。更に信仰の篤い人です。信仰の篤い人とは原語的には日々聖書の教えに耳を傾けることに熱心な人という意味です。デボーションという言葉はこの人のためにあると言える人です。更にシメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望んで」いました。この場合の慰めとは魂の解放と言って良いと思います。当時のユダヤ人はまさに八方塞がりでした。政治的にも経済的にも社会的にも恐怖と貧しさと不正が国中に満ちていました。誰も彼もが救い主を待ち望んでいたのです。そうした中にあると、ともすれば個人的な救いを祈りがちなのですが、彼は民族の救いを待ち望んでいました。待ち望む、そうです。彼もまたクリスマス・アドベントの日々を過ごしていました。彼はまだクリスマスを経験していなかったのです。主は必ずこの世においでになると言う期待を以て祈る日々でした。その祈りを支えるために聖霊が彼にとどまっていました。この世の中で聖霊が留まっているような人を私たちはどのようにして見分けることができるのでしょうか。シメオンという名前には「神は聴いて下さる」という意味があるそうですが、その名に恥じることなく神は信じて祈る者の祈りに耳を傾けて下さるという確信に燃えていました。恐怖と貧しさと不正の渦巻く中にあって尚も主のみ言葉に聴く霊の耳を持ち続ける人でした。私たちはともすれば世の流れに呑み込まれてみ言葉を聞き逃すことがあります。困難が襲ってくると、主に頼ることを忘れます。祈ることに疲れてしまいます。そしていつの間にか人を頼り、物にすがりつこうとする誘惑に負けてしまいそうになります。
神を信頼するシメオンを神は顧みて下さいます。メシア、キリストに会うまで決して死なないと言うみ告げを受けることができました。約束は果たされました。彼は幼子イエスを目の前に見、その腕に抱く特権に与ることが出来たのです。彼にとってこの瞬間こそがクリスマスです。誰でも嬉しくなると鼻歌の一つも口をついて出るものです。彼もまた今嬉しさの余り讃美を歌います。クリスマスに讃美歌はつきものです。教会が町に出て行ってクリスマス・キャロルを歌うのはこうした喜びの自然な表れです。シメオンは歌います。「主よ、今こそあなたはお言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と。彼の心の満足感がにじみ出ています。
あなたはこのようなクリスマスを祝ったことがあるでしょうか。あなたはあなたの目で確かに救いを見たと言えるクリスマスを経験したでしょうか。キリストと共に生き、キリストと共に死ぬのだという確信に満ちた生活をあなたはしているでしょうか。
「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」とシメオンの讃美は続きます。シメオンのクリスマスはシメオン一人の喜びで終わりません。同胞イスラエルが慰められるようにと祈り続けた彼が、今クリスマスの喜びに包まれたとき、その喜びは民族を超えて万民のためにと広げられて行きます。当時ユダヤ人の目に見る異邦人とはローマ人であり、ギリシャ人です。彼らは決して救いに遠い存在には見えません。彼らはこの世の政治的権力を掌握し、経済的にもユダヤ人の首根っこを押さえています。この世で欲しいものの全てを所有しているのです。今更どうして彼らのために祈れるものかと多くのユダヤ人は考えたでしょう。しかしシメオンの祈りは異邦人も視野に入っていました。聖書がそのように祈れと命じているからです。
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3:16)
新しい年が始まりました。2001年度はまだ3ヶ月ほどありますが、この3ヶ月は2002年度へ向けての準備の期間です。私たちはそれに先立ち、共にクリスマスの喜びを頂きました。それはシメオンも言うように、反対を受ける印としての十字架を超えて私たちを愛し、御救いに与らせて下さった主イエス・キリストの大いなる恵みを歌い、宣べ伝える為の喜びなのです。新しいぶどう酒は新しい革袋にこそ相応しいのです。私たちは今新しいぶどう酒ならぬ新しいみ言葉を頂きました。だからこのみ言葉を受けた私たちも今新しくされなければなりません。新しくして下さいと祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
2001年は実にショックな出来事で終始した年でした。そうした中でもあなたはこの教会のメンバー一人びとりを導いて下さいましたことを心から感謝します。そして今2002年の始まりに私たちを礼拝へと招いて下さったことを心から感謝します。この朝、あなたは先ず私たちに命のみ言葉を与えて主イエス・キリストの救いの確かさを味合わせて下さいました。この年もあなたは私たちに為すべき事をお示し下さっています。万民の救いのためにこの世においで下さった十字架のイエス・キリストを宣べ伝えることです。主よ、その為にどうぞこの教会をお用い下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン