【礼拝メッセ−ジ要約】 2002年2月10日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 約】
ユダヤ教の指導者たち(サドカイ派を代表する祭司階級、ファリサイ派を代表する律法学者、そして民の長老たち)は主イエスのもとに来て「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と尋ねましたが、「これらのこと」とは主イエスが宮の境内で商売人を追い出したこと、病人を癒し、子どもたちの讃美を祝福したこと、そして宮で神のみ言葉を教えていたことなどを指します。ユダヤ教の指導者たちにすれば、公認していない人物がこれらのことをするのは許し難い越権行為なのです。彼らの内だれ一人イエスさまをラビとして公認した覚えがありません。だから「何の権威でこれらのことをしているのか。…」と激しく詰め寄ったのです。
しかし主イエスは彼らの詰問に答える代わりに、「ヨハネのバプテスマはどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と逆に問い返します。彼らは一瞬言葉を失いました。いや答えに窮して互いに議論を始めました。彼らは心のどこかでヨハネを恐れていましたが、サンヒドリンとしては認めたくなかったのです。しかしバプテスマのヨハネこそ神から遣わされた預言者だと素朴に信じている民衆の支持を失うことも怖くて黙認していたに過ぎません。このようなジレンマを抱えていましたから、できればこの問題には触れられたくないのです。そこで「分からない」と曖昧な答えを返すしかありませんでした。主イエスもまたこれ以上追求しないで、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と、この問題を棚上げになさいました。
私たちは今日の聖書から何を学ぶべきでしょうか。私たちの信仰生活は人の模倣であってはなりません。如何に偉大な人の言葉であっても、果たしてそれが聖書に照らしてアーメンと言えるものか、主の御旨に適ったものであるかどうかを見定める霊の目を御霊によって養って頂かなければなりません。権威とか主権は人が決定するものではなく、神がお与えになるものだと言うことを忘れてはなりません。同時に神のみ言葉を取り次ぐ者をこの世の権力や数の力で退けるなら、それは権威の主であるイエス・キリストを退けることになります。
メッセージ:高橋淑郎牧師
いちじくの木が枯れた事件はイエスさまがエルサレムに入城して3日目の火曜日にあたります。この一日の出来事をマタイは25:46まで紙面を割いているほどです。この日、イエスさまは神殿で奉仕している人々を深く愛して、彼らを何とか悔い改めに導こうと貴重な時間を費やされました。神殿の奉仕者とは勿論皆さんもご承知の通りサドカイ派を代表する祭司階級、ファリサイ派を代表する律法学者、そして民の長老たちのことです。ここにはその祭司集団と民の長老達が主イエスと議論をしたように書かれていますが、マルコを読むと律法学者もそこにいたと言うことです。当時ユダヤ人はユダヤ教を国教とする最高議会サンヒドリンの指導を受けていました。そしてサンヒドリンは神殿を代表する祭司、会堂を代表する律法学者、町を代表する長老によって構成されていたのです。彼らはそれぞれの権威者から公式に任命を受けた指導者でした。その彼らが主イエスのもとに来て「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と尋ねましたが、「これらのこと」とは主イエスが宮の境内で商売人を追い出したこと、病人を癒したこと、子どもたちの讃美を祝福の内に受け入れたこと、そしてこの宮で神のみ言葉を教えていたことなどを指します。ユダヤ教の一切を支配していたサンヒドリンのメンバーにすれば、公認していない人物がこれらのことをするのは許し難い越権行為なのです。後に使徒ペテロとヨハネが宮の庭で主イエスの死と復活の説教をしたときにもサンヒドリンは彼らを即刻逮捕して、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああ言うことをしたのか」(使徒4:7)と尋問したのと同じです。サンヒドリンの言う権威とは、例えばユダヤ教で律法の教師を「ラビ」と言いますが、ラビとして公認されるためには最低3人の既に任職されたラビの前で、恩師のラビの手で按手されなければなりません。しかし彼らの内だれ一人イエスさまの頭の上に手を按(お)いた覚え、按手した覚えはありません。従って公認した覚えがありません。だから「何の権威でこれらのことをしているのか。誰がその権威を与えたのか」と激しく詰め寄ったのです。
しかし主イエスは彼らの詰問に答える代わりに、「ヨハネのバプテスマはどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と逆に問い返します。彼らは一瞬言葉を失いました。いや答えに窮して互いに議論を始めました。彼らは心のどこかでヨハネを恐れていましたが、サンヒドリンとしては認めたくなかったのです。しかしバプテスマのヨハネこそ神から遣わされた預言者だと素朴に信じている民衆の支持を失うことも怖くて黙認していたに過ぎません。このようなジレンマを抱えていましたから、できればこの問題には触れられたくないのです。そこで「分からない」と曖昧な答えを返すしかありませんでした。主イエスもまたこれ以上追求しないで、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と、この問題を棚上げになさいました。
しかし、この事件は聖書を読む者にとって「権威」とは何かを考えさせます。結論を言ってしまえば、「権威」とは人によるのではなく、神に由来しています。神から遣わされて行う業、語る言葉だけが権威あるものと神に認められるのです。キリストの権威は地上のいかなる人々からの承認を必要としません。キリストの教えは誰か有力な学者の説を借りて語る教えではありません。そのことはサンヒドリンのメンバーよりも民衆が一番良く分かっていました。それについての聖句を紹介しましょう。
「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(マタイによる福音書7:28−29)
キリストは父なる神から直接任ぜられた主権をもって教え、病いを癒し、人々の讃美を受け、罪を赦す方なのです。
では、人が語る言葉、人の為す業が神に由来したものか、人からのものか、どうやって見分けることができるのでしょうか。バプテスマのヨハネの場合を考えてみましょう。彼は祭司の家に生まれましたが、神殿の外に神を見出して神殿から閉め出されている人々に御国に至る道を説き、悔い改めのバプテスマを授けました。そして「わたしは人々の荒野のような心に悔い改めを促して叫ぶ声(預言者)に過ぎない。あなたはあなたの罪を取り除くために間もなくおいでになる神の小羊、キリストに聴き従いなさい」(ヨハネ1:23−34)と言いました。
「荒野で叫ぶ声」とはイザヤ書40:3からの引用です。イザヤは400年も前から主イエスとバプテスマのヨハネについて預言し、これを文書に残したた偉大な預言者ですが、彼について少し触れておくことは無駄ではないと思います。イザヤが預言者としてデビューしたのはユダの国が大変混乱している時でした。イザヤ書6:1を見て下さい。
「ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」
偉大な指導者が死にました。国の将来はどうなるかと誰もが不安に陥っていたまさにその時、イザヤは更に重大な出来事を目撃し、経験したのです。国中が過ぎ行くことで右往左往していたとき、彼は大いなる神の栄光に触れて誰がこの国を真に支配し、指導者であるかを目の当たりにして驚いたのです。そしてこの神のみ言葉を取り次ぐことによってこそ国は平和を保ち、世界に貢献できる者となると確信して献身しました。
バプテスマのヨハネは汚れた神殿の外に出て、神殿の外で聖なる神を見出し、そして神殿を清めようとしました。イザヤは神殿の中で聖なる神、全能の神を見出し、そして神殿から遣わされて汚れた社会を清めようとしました。イザヤもバプテスマのヨハネもキリストにこそ聴き従うべき事を上からの権威をもって語り伝えたのです。しかしその代の人々はこの二人を受け入れず、迫害し、死に至らしめました。そればかりでなくサドカイ派の人々やファリサイ派の人々は権威と権力をはき違えて権威の主であるキリストをさえ殺そうと図ったのです。
私たちは今日の聖書から何を学ぶべきでしょうか。私たちの信仰生活は人の模倣であってはなりません。如何に偉大な人の言葉であっても、果たしてそれが聖書に照らしてアーメンと言えるものか、主の御旨に適ったものであるかどうかを見定める霊の目を御霊によって養って頂かなければなりません。権威とか主権は人が決定するものではなく、神がお与えになるものだと言うことを忘れてはなりません。同時に神のみ言葉を取り次ぐ者をこの世の権力や数の力で退けるなら、それは権威の主であるイエス・キリストを退けることになります。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
祭司や律法学者が地上の権力を振り回して上からの権威を否定したところに彼らの不幸があることを学びました。旧約聖書の時代から神の働き人は皆このような人々との軋轢で苦しみ、時に無惨な死を遂げました。しかし主よ、あなたはこの教会にこの世の権力に惑わされることのない信仰の勇士をこんなにも多く与えて下さっていることを感謝します。この人達はこの週もまたこの世に遣わされて信仰の戦いをします。どうかあなたがいつ、どのような状況の中にも御臨在下さって、あなたの御旨に背く者の力からこの人達をお守り下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン