【礼拝メッセ−ジ要約】 2002年2月17日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 約】
主イエスは神のみ言葉を聴き、神を畏れる心に目覚め悔い改めて神に立ち帰った徴税人や娼婦たちを、初めは「いやです」と断りながら、後で考え直して父親の言葉に従った兄息子に譬え、また自分たちを立派な者と誇って神のみ言葉の前に謙らない祭司長、民の長老、律法学者達を、「はい、従います」と調子の良い返事をしながら、結局父親の期待と信頼を裏切った弟息子に譬えて悔い改めを促します。
先日ある人を近くの温泉にご案内しました。「身も心も温まりました」と喜んで下さったので、私たちもお連れした甲斐があったと感謝したものです。しかし、温泉の入り口に一つ気になる注意書きがありました。「入れ墨を彫っている方は入館をお断りいたします」という断り書きです。勿論、施設を利用する私たちの為に配慮しての断り書きなのでしょう。聖書にも「死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない」(レビ記19:28)と戒められていますので、施設の方針は聖書に照らしても間違っているとは言えません。でも何か釈然としません。何故なら聖書のこの戒めは神を知らない人にではなく、既に神を畏れ、神を信じている人のために書かれているものなのです。現代で言えば、クリスチャンになった後、しかもこのような戒めが書かれていることを知っていながら敢えて入れ墨をした人と、入れ墨をしてしまってから教会に導かれて神を畏れる者に変えられた人と同じと見なして良いのでしょうか。クリスチャンにならないまでも前非を悔い、真っ当な人生を生き抜いて行こうと努力している人までも外見だけで世間の表通りから閉め出して良いのでしょうか。それは最近のできごととして図書館でホームレスの人から注意を受けたことを、人生の落伍者に言われたくないと逆恨みして暴行を加えて死なせてしまったあの子どもたちとどこに違いがあるのでしょうか。
主イエスの譬え話を学びました。私たちがもし弟息子のような生き方をしていたと気が付いたなら、今考え直しましょう。主の御前に悔い改めましょう。兄息子のような生き方をしていて良かったと胸をなで下ろしている人はどうか、益々神を畏れて他の人を審くことのないように、ますます主の御前に謙ってキリストに倣い、「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払い」(フィリピ2:3−4)ながらこの世の生活に励みましょう。
メッセージ:高橋淑郎牧師
この譬え話について学ぶ前に押さえておきたいのですが、新共同訳聖書と他の訳の聖書とでは、兄と弟が父親に対して答えた言葉とその後の行動はまるっきり反対に訳されていますので、例えば口語訳聖書や新改訳聖書を読み慣れている人には戸惑いがあるかと思います。それはそれぞれ日本語に翻訳するために用いるギリシャ語の原文、これを底本と言いますが、一口に底本と言いましても色々な種類の写本がありますから、翻訳して下さった学者さんがどれをもって底本として採用したかの違いなのです。そうした経緯を踏まえた上で、私たちは今手にしている聖書を信頼してここから主イエス・キリストの教えを学ぶことにしたいと思います。
人の子の親になると言うことは大変なことです。最近ショックな事件がありました。ホームレスの男性が図書館で騒ぐ子どもたちに注意したところ、それを逆恨みした子どもたちは、その日の夕方男性に集団で暴行を加え、遂に死なせてしまったと言うことです。逮捕された子どものある母親の一人は警察官から子どもの躾について問われたところ、母親は「私は今まで一度もこの子を叱ったことがありません」と答えたと言うことです。一度も叱ったことがないこと自体を一概に非難するとはできません。それぞれの躾の仕方があるわけですから。ただ今度の事件を契機に現代の世相を思うに付け、つくづく今の時代子どもを育てることの難しさ、親になることの難しさをを痛感します。世の親御さん達のご苦労を心に留めて祈らずにいられません。
この譬え話の中の父親も子育ての難しさを経験した一人です。兄息子は照れ屋なのか、反抗期真っ盛りなのか、父親の命令に素直になれません。一応「いや!」と断りたいのです。今の今まで携帯メールか何かで遊んでいたのに、急に机に向かって勉強している素振りを見せました。父親はそんな息子の後ろ姿を見て叱ることもできず、諦めて弟息子の部屋に行きました。これもどうかなと思いながら、同じように命じました。するとこの息子は何と嬉しいことに、「いいよ、直ぐに行くから先に行ってて」と二つ返事で引き受けてくれます。父親はほっとして畑に行き、土いじりをしながら待っていると、畑にやってきたのは何と弟ではなく、兄息子の方でした。子育てとは難しいものです。
主イエスはこの小さな家庭の出来事を題材にして、世の親ならぬ、天の父である神ご自身がこの世の人々、私たちに対してどれほど忍耐しながら育て下さっているか、教えようとしておられるのです。主イエスはこの譬え話の中で、初めは「いやです」と断りながら、後で考え直して父親の言葉に従ったのは誰か。「はい、従います」と調子の良い返事をしながら、結局父親の期待と信頼を裏切ったのは誰かと問いかけ、御自分を取り囲んでいる祭司長、民の長老、それに律法学者達に悔い改めを促します。それに引き替え、あなたたちが人生の落伍者、天国からの落第生と決めつけて軽蔑している徴税人や娼婦たちの方が天国に近いと言います。勿論徴税人のまま、娼婦のままで天国に行けるわけではありません。しかし、彼らはバプテスマのヨハネの厳しくも愛に満ちた神からのメッセ−ジを聴いて、今までの生活を振り返り、考え直したのです。悔い改めのバプテスマを受けたのです。だから彼らは天国を約束された人々だと言われます。
先日遠来の旅人がわが家を尋ねてくれました。旅の疲れが少しでも癒されたらと、多摩ニュータウンにある厚生年金会館の温泉にご案内しました。安い料金にも関わらず、「身も心も温まりました」と喜んで下さったので、私たちもお連れした甲斐があったと感謝したものです。それはそれで良い一日を過ごせたのですが、温泉の入り口に一つ気になる注意書きがありました。「暴力団の方、入れ墨を彫っている方は入館をお断りいたします」という断り書きです。勿論、施設を利用する私たちのための配慮としての断り書きなのでしょう。間違っているとは言えないのですが、また聖書にも「死者を悼んで身を傷つけたり、入れ墨をしてはならない」(レビ記19:28)と戒められていますので、施設の方針は聖書に照らしても間違っているとは言えません。でも何か釈然としません。何故なら聖書のこの戒めは神を知らない人にではなく、既に神を畏れ、神を信じている人のために書かれているものなのです。現代で言えば、クリスチャンになった後、しかもこのような戒めが書かれていることを知っていながら敢えて入れ墨をした人と、入れ墨をしてしまってから教会に導かれて神を畏れる者に変えられた人と同じと見なして良いのでしょうか。クリスチャンにならないまでも前非を悔い、真っ当な人生を生き抜いて行こうと努力している人までも外見だけで世間の表通りから閉め出して良いのでしょうか。それなら、図書館でホームレスの人から注意を受けたことを、人生の落伍者に言われたくないと逆恨みして暴行を加えて死なせてしまったあの子どもたちと変わらないのではないでしょうか。祭司長たち、民の長老たち、律法学者たちは外見だけを繕い、しかし神に立てられたバプテスマのヨハネを自分たちより低い者と見下してメッセ−ジに耳を傾けないし、そのメッセ−ジによって悔い改めることもしない、つまり後になっても考えを改めないで父親の心を痛めた弟息子と同じことをしているのです。今の社会の仕組みもどこか似ているのです。正邪善悪の基準を聖書に求めないで、自分たちの物差しに頼る、ここに罪があるのです。
私たちは今日この後、教会規則に続いて細則を学び、作り上げようとしています。規則というものは、それができるまでの作業は実に退屈でどうでも良いことのように思われるものです。しかし一旦これが一人歩きを始めると、私たちの教会生活に思いもかけない足枷となることがあります。規則・細則がお互いを審く道具になりかねません。それは作成の段階で、それぞれが自分の物差しで決めてしまおうとする結果起こる悲しい現象です。皆さんは聖書を通読していて一番退屈なのはどこだと思いますか。片仮名が多く出てくるところは苦手だとか、詩編は長いから読んでも読んでも終わりが見えないからいやだとか色々な感想をお持ちでしょう。しかし、私の耳に届く声の大半は「レビ記」です。創世記から申命記は聖書全体の要ですが、他の四書は分かりにくい部分も少なからずありますが、それでも所々物語性が見られて感動するし、身近に感じられます。所がレビ記だけは始めから終わりまで「…しなければならない」とか、「…してはならない」と退屈な戒めの言葉の連続です。しかしユダヤの人々はこのレビ記をこよなく愛読します。何故なら、この戒めほど私たちの生活に祝福を約束してくれる戒めはこの地上に見られないからだというのです。私たちの教会規則と細則をただ私たちの教会生活に足枷をはめるだけのものとしてしまうか、それともレビ記を初め、聖書全体の精神をしっかり受け継いだ祝福の基となるか、それは私たち次第です。
主イエスの譬え話を学びました。私たちがもし弟息子のような生き方をしていたと気が付いたなら、今考え直しましょう。主の御前に悔い改めましょう。兄息子のような生き方をしていて良かったと胸をなで下ろしている人はどうか、益々神を畏れて他の人を審くことのないように、ますます主の御前に謙ってキリストに倣い、「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払い」(フィリピ2:3−4)ながらこの世の生活に励みましょう。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
祭司や律法学者は自分を正しい者、清い者として徴税人や娼婦を見下していました。しかし人は良くも悪くも変わります。あなたのみ言葉に触れた徴税人や娼婦はこれまでの生き方にピリオドを打ち、悔い改めて主イエスの弟子に加えられたのです。しかし祭司も律法学者も彼らの今を見ず、過去に拘ってそれを認めようとはせず、また自らの傲慢という罪を振り返ることもしないで、あなたの御心を悲しませ続けています。しかし、それは私たちの姿でした。私たちこそあなたのみ言葉に触れながら、これまでの生き方を考え直すことをしていませんでした。主よ、どうかお赦し下さい。私たちを今よりもっとあなたを愛する者、教会を愛する者、互いを自分よりも優れた者と考える謙った心へと導いて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン