【礼拝メッセ−ジ要約】 2002年3月3日
メッセージ:高橋淑郎牧師
【要 約】
祝宴を始めるにあたって王は招待客に挨拶をする為に会場に入ってきました。しかしそこに礼服を身に着けていない人がいました。王は早速彼に、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と尋ねました。しかし彼は恥ずかしさの余り、答えに窮して黙っている他ありません。結局その場から追放されてしまったというのです。
古代イスラエルでは常々宮廷に上るべき義務のある者には礼服を貸し与えられていました。王から呼び出しがあると、彼らは盛装して登城することになっていました。主イエスの譬え話はこれを題材になさってのことです。王から婚宴の席にと招かれた人々は半ば強制的に集められた人々ですから、自前で礼服を準備することはできません。このような人のために王は予め礼服を貸し与えておいたはずです。ところが彼はそれを失ってしまったのか、それとも汚してしまったのか、結局普段着で来るより他なかったのです。それで王は宴席に相応しくない装いで列席した彼をそこから追い出してしまいました。
一体この譬えにはどのような意味があるのでしょうか。主イエスが譬えに用いられた礼服とは信仰の装いです。譬え話の中の宴席とは実は天国のことです。人は誰でも天国に招かれていますが、但しそれに相応しい装いが求められます。聖書はこのように言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリストに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26−27)と。
今日皆さんは礼拝に来られました。皆さんは今この瞬間天国への招きの声を確かに聞くことができたのです。これまでの生き方がどのようなものであったかは問題ではありません。今主イエスのもとに来られたことが尊いのです。聖い神の独り子イエス・キリストのもとに来て人は誰も自分を正しい者、清い者と主張することができないことは明らかです。今自分の古い罪、新しい罪を認めてイエス・キリストの御前に悔い改め、その罪を正直に告白しましょう。そうすれば救われるのです。天国の一員とされるのです。
メッセージ:高橋淑郎牧師
天国という所はどんなところか誰しも興味があります。しかし実際にそこへ行って還ってきた人がありませんから、私たちには分かりません。しかし、今日その天国からおいでになった方が天国のことを教えて下さいます。主イエスによると天国に招かれると言うことは、ちょうど結婚披露宴の席に招かれるような華やいだところであり、同時にそれなりの備えも必要ですから、皆がみなこの席に着くことができるとは限らないと言うことです。
一、招かれた人は多いが
イスラエルでは予め招待客に対して婚宴の案内をしておき、日時と場所が決まったら、改めて「どうぞおいで下さい」と使者を送って呼びにやらせる習慣があったそうです。ですから招待された人々は既に知っていたはずです。もし都合が悪いなら前もって断る時間は十分にありました。知っていたのに、前もって断ることもしないで、いざその時になっても来なかったのです。王はがっかりしましたが、それでも気を取り直してもう一度使者を送って今度は「料理のメニューはこれこれです。万端整っていますから是非おいで下さい」と、より詳しく案内させます。しかし彼らの中のある者は自分の生活で頭が一杯になっていますから、使者の口上を無視します。別の人はうるさいとばかりに王の死者をなぶり殺しにしてしまいました。彼らは王に対する日頃の反感をむき出しにしたのです。
この譬え話は何を意味しているのでしょうか。王は父なる神御自身であり、王子はキリストです。家来たちは預言者です。招かれているのに断ったのはユダヤ人です。神はその昔アブラハムに約束なさったことを今果たそうとその子孫であるユダヤの人々を神の御国、天国へと招いて下さいました。しかし彼らは神の招きを無視するように、遣わされた預言者を次から次へと迫害し、或いは殉教させてしまいました。王が譬え話の中で言うように、「招いておいた人々は相応しくなかった」のです。王が立腹して不遜な人々を罰したように、神は彼らを懲らしめて天国への招待を異邦人に向けられたという教えです。
二、異邦人に開かれた天国
王は言います。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(8−9節)と。ルカによる福音書によると、王の僕は「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」(14:22)と言っています。すると王は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ。」と言ったということです。「通り」というギリシャ語は地方から都会に入る大きな四つ角という意味があるし、イスラエルはアフリカ・ヨーロッパに至る臍のような位置にあるので、国境の分岐点という意味もあります。確かにエルサレムは宗教的にはユダヤ人と異邦人の間に厳しい一線が引かれていますが、政治的、経済的には色々な国籍の人が入り交じっていました。この譬え話で言う「通り」の意味で言うなら、天国の宴席にはユダヤ人に限らず異邦人も招かれていたと言うことができます。
この譬え話を通してイエス・キリストは天国への招待状は町の大通りで誰にでも手渡されると約束して下さいました。もはや民族の壁は取り払われたと言う意味です。ユダヤ人は自分たちを神の選びの民であるとか、聖なる国民、あるいは義の民とか自称していました。しかし主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われます。天国への入り口は誰にでも開かれているのです。イスラエルの律法によると、天国への入門資格は法律に違反しない人であるとか、道徳的に落ち度のない人であるとか、色々厳しい条件が付けられていましたが、イエス・キリストはそのような壁を全て取り壊してしまわれました。天国への道はただ一つイエス・キリストの下に来ることです。イエス・キリストを救主と信じ受け入れることです。
外国から来て日の浅いある宣教師がヨハネ3章からお話しをなさった時、「ニコデモはイエス・キリストのもとに来ましたから多分救われたことでしょう」と言いたかったのですが、「イエス・キリストのもとにきた猫でも救われたことでしょう」と言いました。ちょうどそこに猫をこよなく愛している女性がいて、「良かった、じゃあ、うちの猫も一緒に天国に行けるのね」と喜んだということです。猫でも救われるかどうか分かりませんが、人間はイエス・キリストのもとに行きさえすれば、間違いなく誰でも救われます。天国の婚宴の席に着くことが許されるのです。
三、礼服を身に着けて
さて、そのようにして宴会の席は一杯になりました。祝宴を始めるにあたって王は招待客に挨拶をするために会場に入ってきました。しかしそこに礼服を身に着けていない一人の人がいました。王は早速彼に、「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と尋ねました。しかし彼は恥ずかしさの余り、答えに窮して黙っている他ありません。そして結局その場から追放されてしまったというのです。
律法の教師をラビと言いますが、ラビの教えによれば、イスラエルでは歴代の王は常々宮廷に上るべき義務のある者には礼服を貸し与えていたそうです。王から呼び出しがあると、彼らは盛装して登城することになっていました。主イエスの譬え話はこれを題材になさってのことです。王から婚宴の席にと招かれた人々は半ば強制的に集められた人々ですから、自前で礼服を準備することはできません。このような人のために王は予め礼服を貸し与えておいたはずです。ところが彼はそれを失ってしまったのか、それとも汚してしまったのか、結局普段着で来るより他なかったのです。これは折角招待してくれた人に対して大変失礼なことです。それで王は宴席に相応しくない装いで列席した彼をそこから追い出してしまいました。
一体この譬えにはどのような意味があるのでしょうか。主イエスが譬えに用いられた礼服とは信仰の装いです。譬え話の中の宴席とは実は天国のことです。人は誰でも天国に招かれていますが、但しそれに相応しい装いが求められます。口語訳聖書の歴代志上16:29に「聖なる装いをして主を拝め」(他に詩編29:2,96:9)という1節があります。礼拝には礼拝に相応しい装いが求められると言う意味です。しかし同じ聖書の箇所でも私たちが今手にしている新共同訳聖書によると、「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」と訳されています。神が求めておられる聖なる装いとは主にひれ伏す信仰の装いのことです。これこそ天国に相応しい礼服なのです。しかしこれを自前で準備することはできません。譬え話の中の王と同じように、私たちは天国に招待して下さる神ご自身が提供して下さるものを身に着けるのです。
ザアカイという人がいました。彼はいちじくの木の枝に上ってイエス・キリストが通りかかるのを見ようと待ちかまえていました。イエス・キリストはいちじくの木の下に来て、「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言ってくださいました。彼はその瞬間電気に打たれたように急いで樹から降りてきてイエスさまを家に迎え入れました。回りの人々は、「イエスさまはどうしてあんなならず者の家に入って行くのか」と陰口を言い合っていました。その時です。ザアカイは意を決してこう言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:5,8)と言いました。これはザアカイの神への悔い改めと信仰の告白です。古い罪、新しい罪の全てをイエス・キリストによって清算していただきたいと告白しました。イエス・キリストを「主よ」と言い表しました。イエスを神と信じた証です。その時主イエスは喜び一杯にこう言われました。「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19:9)と。
聖書はこのように言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリストに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26−27)と。ザアカイはこの時天国の礼服を頂くことが出来ました。イエス・キリストを家に迎え入れただけではなく、自分の一切の罪を認めて悔い改めました。即ち心の内にイエスを救い主キリスト、神として受け入れたからです。
今日皆さんは礼拝に来られました。皆さんは今この瞬間天国への招きの声を確かに聞くことができたのです。これまでの生き方がどのようなものであったかは問題ではありません。今主イエスのもとに来られたことが尊いのです。聖い神の独り子イエス・キリストのもとに来て人は誰も自分を正しい者、清い者と主張することができないことは明らかです。今ザアカイのように、あなたも自分の古い罪、新しい罪を認めてイエス・キリストの御前に悔い改め、その罪を正直に告白しましょう。そうすれば救われるのです。天国の一員とされるのです。
祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
あなたは今日イエスさまの譬え話を通して私たちに天国への招待状と、天国に相応しい礼服を与えて下さいましたから心から感謝いたします。あなたは私たちの古い罪の性質とその生活から私たちを清めるために、私たちの罪の身代わりにあなたの独り子イエス・キリストが十字架に死んで甦ってくださいました。それによって私たちは救われました。天国にあってあなたが開いてくださる祝宴に私たちのような罪深い者をもその席に着くことを赦して下さいました。私たちはその日がいつか分かりませんが、その日の為にあなたが用意して下さった天国の礼服をいつも身に着けて備えていたいと思います。どうか私たちの信仰生活を日々お支え下さるように、
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン