【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2002年3月17日
サドカイ派の人々は主イエスに、「地上で再婚を繰り返した人は復活の後、誰の配偶者と言えるのですか」と尋ねました。キリスト者は死後復活の命が与えられて天の御国に引き上げられますが、それは懐かしい親兄弟や配偶者、また兄弟姉妹、友人に会う為ではありません。勿論神はそのような人々と再会の機会を与えて下さるでしょう。しかし復活の一番の目的は主なる神御自身にお目にかかることでなければなりません。天の父なる神を信じ通した人は、死後「天使のようになる」と主は言われました。天使は常に神を仰ぎ見ているからです。天の御国とは地上での懐かしいあの人もこの人も、全てが天地の主なる神を一心に見つめて共にその栄光を讃美する世界なのです。使徒パウロは復活を植物に譬えて教えます。植物の種は地の中に蒔かれて死にますが、全く異なった美しい花を咲かせるものとしてその姿が変えられます。私たちもそうだとパウロは言います。「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(气Rリント15:43)と。花の蜜は昆虫を養うためにありますが、花の美しさは人間に見せるために造られています。私たちも卑しいものが輝かしいものに、弱いものが強いものに変えられた証として造り主である神に見られるために復活の時に栄光の体が与えられるのです。
サドカイ派は律法書、即ちモーセ五書(旧約聖書;創世記−申命記)を精査した結果、「律法書は復活信仰を支持していない」と結論しました。これに対して主イエスは「その律法の書の1節に『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』(出エジプト記3:6)と書かれている。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と反論しておられます。これは天地創造の神を信じる者は復活の命を与えられ、神の御前に今も生きているという意味です。あなたは主イエス・キリストにあって復活を信じる確信が与えられるような聖書研究の毎日ですか。それとも、復活の望みを持つことを拒むような「死んだままの聖書研究」の毎日ですか。信仰生活ですか。教会生活ですか。
サドカイ派の人々は極めて興味深い質問をもって主イエスに迫ります。それは、「復活はあるのかないのか、人は死んだらどうなるのか」というものです。ちょうど良い機会ですから、今日は簡単にサドカイ派の歴史について、また復活の教えについて共にみ言葉に聴かせていただきましょう。この一派はダビデの時代に、神の契約の箱を守り通した祭司ザドクの名に由来した名前です。時代は下って紀元前2世紀ごろ、イスラエルを支配していたギリシャに反抗して独立戦争を勝ち取ったマカビー家によって祭司階級の体制が充実し、いつしかマカビー家から大祭司を輩出するようになりました。この大祭司を中心とする祭司階級をサドカイ派と呼ぶようになりました。彼らは少数ですが、大祭司の立場を利用して特権階級にありました。政治的にはローマと手を結び、ギリシャ思想を歓迎していました。彼らは保守的なユダヤ教の指導者で、聖書はモーセ五書(創世記から申命記)だけを正典と定め、それ以外のヨシュア記からマラキ書までの34の書物は聖書と認めません。また天使も霊も復活も信じない、極めて現世中心主義の教義を柱とするグループです。
彼らの質問は申命記25:5−10の教えに基づいた譬え話です。サドカイ派の人々はこの律法を盾に、「では復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです」と言います。モーセ五書には復活を支持する教えなどないと言いたいのです。これは全くの誤解です。しかし復活を信じているはずのクリスチャンの中にも良く似た誤解を見かけます。 「死んだら天国で父や母に会える。わが子に会える。夫に会える。妻に会える。兄弟姉妹に会える」等と、死後の世界を地上の延長で捉えているのです。
主イエスはこのような質問に対して「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」とお答えになりました。主イエス・キリストの目には、律法の解釈については絶対の自信を持っているはずのサドカイ派でも聖書について、神について分かっていないのです。律法の書は復活について何も語っていないと言うのがサドカイ派の解釈ですが、それ自体が誤解です。聖書に対する誤解は聖書の神に対する目を曇らせてしまいます。主イエスは彼らが否定する復活について、律法の書を以て証明しようとなさいます。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか」と、出エジプト記3:6を引用なさいました。これこの通り律法は復活についてはっきりと書いてあるではないかと言われたのです。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われたこの言葉をサドカイ派はこれまで何回も何十回も読んでいました。しかし、その言葉の意味をさほど深く考えていなかったと見えます。そう言うことは良くあることです。聖書の一節を何気なく読み過ごしていたと言うことは私たちにも思い当たります。聖書を読むというのと、聖書の字面を追っているというのとでは大変な違いがあります。この出エジプト記3:6は、神がモーセをエジプトで奴隷の軛(くびき)に繋がれている同胞イスラエルの解放者として選び、そのことをモーセに告げて召し出そうとなさった物語の一節です。多分サドカイ派の人々はそのような神とモーセの対話に気を取られて、この1節をそれほど深く考えても見なかったのでしょう。それにしても、この言葉がどうして復活を証明するみ言葉なのでしょうか。そこが今日のポイントです。神がモーセに語られたとき、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、この世の人ではありませんでした。彼らは遙か昔の人です。モーセたちイスラエル民族の歴史の礎を為した人、即ち先祖に当たる人たちなのです。しかし、神は彼らを今も生きている一人として、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言われます。 天地創造の主なる神を畏れ敬い、信仰を言い表した人、その生涯をこの神に従い通して死んだ者は、たとえ肉体的に朽ち果てても、神にあって新しい命が与えられているのです。これを復活の命、或いは永遠の命と言います。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。
そこで、「七人の兄弟の妻になった女性」の話に戻りましょう。復活の時、彼女は誰の妻であるかと言うことが問題ではなく、何のために復活させられるのかと言うことこそ大事です。キリスト者は死後復活の命が与えられて天の御国に引き上げられますが、それは懐かしい親兄弟、配偶者、兄弟姉妹、また友人に会う為ではありません。勿論神はそのような再会の機会を与えて下さるでしょう。しかし復活の一番の目的は主なる神御自身にお目にかかることでなければなりません。その生涯を天の父なる神を信じ通した人は、死後「天使のようになる」と主は言われました。天使は常に神を仰ぎ見ています。天の御国とは、地上での懐かしいあの人もこの人も、全てが天地の主なる神を一心に見つめて共にその栄光をほめたたえる世界なのです。使徒パウロは復活について教えるとき、植物の種に譬えて、植物の種は地の中に蒔かれて死にますが、全く異なった美しい花々を咲かせるものとしてその姿が変えられます。わたしたちもそうだとパウロは言います。「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです」(气Rリント15:43)と。花の蜜は昆虫を養うためにありますが、花の美しさは人間に見せるために造られています。私たちも卑しいものが輝かしいものに、弱いものが強いものに変えられた証として造り主である神に見られるために復活の体が与えられるのです。
今年の初め頃、エチオピアの山岳地帯で祝われたクリスマスの様子をTVで観ました。非常に険しい岸壁に何とか言う名前のキリスト教会がありました。一組の夫婦が大変な苦労をしながら小さな子どもを連れてその教会目指してよじ登って行きました。その日、彼らの子どもがバプテスマを受けることになっていたからです。しかし、折角教会の入り口まで来たのに、中にはいることが許されるのは、夫とその子どもだけです。妻はバプテスマが終わるまで外で待たされるのです。しかし彼女の顔には静かな笑顔がありました。TVの取材をしている日本人のキャスターらしき人が外で待つ妻に、「そうまでして子どもに洗礼を施す意味は何ですか」と聞きました。すると、彼女は当たり前のことをどうしてわざわざ聞くの?と言うような表情で、彼に問い返しました。「洗礼を受けない人がこの世界にはいるのですか」と。
サドカイ派の人々は、非常に細かい注意を払い、凡人の及ばぬ努力を重ねながら、一年を通して、そして毎年毎年モーセ五書を通読しているのです。そして「人は何故、律法に違反して復活を信じるのか」と主イエスに尋ねました。これに対して主イエスは当たり前のことをどうしてわざわざ聞くのかというように、「律法の中にこそはっきりと復活についての約束があるのに、あなたがたはどうして信じられないのか」と問い返しておられます。私たちの神はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です。死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなたは生きている者としての聖書研究の毎日ですか。信仰生活、教会生活ですか。それとも、復活の望みを持つことを拒むような死んだままの聖書研究の毎日ですか。信仰生活、教会生活ですか。使徒パウロは更に言います。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」(气Rリント15:17−20)と。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」というみ言葉の故に心から感謝し、あなたの御名を崇めます。私たちはこの約束のみ言葉によって大いに慰められました。この世の生活は誠に息苦しく、問題が山積みしている世界です。一体この国はどこへ行こうとしているのか、世界は何を目指しているのか、クリスチャンでさえそのような恐れの波に翻弄されるのです。暗いニュースを見聞きするたびに、この世が一層暗闇を突き進んでいる様しか目に入りません。思わず絶望かと叫んでしまいそうになります。しかし、そうではないのです。確かに夜は更け、真っ暗闇です。しかし、あなたの御前には光があります。命が溢れています。希望があります。私たちはこの世に絶望していてはならないのです。この世が暗ければ暗いほど、あなたの栄光は輝きを増しています。どうか、わたしたちに勇気をお与えください。あなたの愛を下さい。そして、生きている者の神であるあなたの独り子イエス・キリストの御許に人々をお導きできますように。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン