【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2002年4月21日

「仕える者になれ」

マタイによる福音書23章1-12節 

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 19章から続いたサドカイ派やファリサイ派との議論も22章で終わりました。今日のみ言葉はその締めくくりと言うことができますが、これはただ目の前の相手に留まらず、そばで聞いている人々をも正しい方向へ導く教育的手段と言うことができます。

 今日のみ言葉は会衆の皆さんに与えられた戒めと言うよりも、現在この講壇に立つ私たち、メッセンジャーこそ心して聴くべしと自戒しながら解き明かしているところであります。わたしは色々な訳の聖書をテキストに聖書注解書や聖書辞典、聖書事典や聖書講解などを参考にして解き明かしますが、しかし会衆の皆さんも私もあくまで聖書そのものがお互いの信仰と生活の規範でなければなりません。色々な学者の説を参考にしても、また様々なメッセンジャーの解き明かしを聴いてもそれが絶対ではないのです。それは聖書の解釈を助けてはくれますが、聖書そのものではないと言うことを忘れてはなりません。わたしたちは難しくても、分からなくても聖書の意味は聖書に聴くという姿勢を崩してはなりません。また同時に皆さんはわたしのことを「先生」と呼ぶ必要はありません。わたしはメッセンジャーであり、同時に牧会者であります。しかし、「先生」と呼ばれるお方はイエス・キリスト、ただお独りです。

 同時に皆さんは、お互いの間で謙虚でなければなりません。高ぶる思いという誘惑から自由でいられるように、日々のデボーションを欠かしてはなりません。主イエスは、言行不一致な指導者を前にしてさえ、彼らの行いは無視して、その語る言葉にのみ従いなさいと言われました。ましてや教会の中で学ぶべき人を見たなら、その人こそあなたのために神がお立てになった指導者ですから、その人に倣うという謙虚さと勇気を失わないようにしましょう。ヘブライの信徒への手紙の記者はその13:17の中で「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません」と言っています。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                            2002年4月21日

「仕える者になれ」

マタイによる福音書23章1-12節 

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 19章から続いていたサドカイ派やファリサイ派との議論も22章で終わりました。今日のみ言葉はその締めくくりですが、その目的は両者の議論を聞いていた群衆と弟子たちに対するメッセ−ジの中に見られます。主イエスにとって議論は、ただ目の前の相手を導こうとするに留まらず、第三者的な立場で聞いている人々をも正しい方向へ導く教育的手段と言うことができます。

 

 「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、、彼らの言うことは、すべて行い。また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」

 

 この主イエスの言葉で面白い言い回しが見られます。「彼らの行いは、見倣ってはならない」と言っておきながら、その直ぐ後で、「言うだけで、実行しないからである」と言っておられます。ファリサイ派の人々は言うだけで何もしないのか、実行するけれども見倣うに値しないのか、本当のところどっちなの?と聞きたくなります。どちらも間違いではないのです。ファリサイ派の人々は、確かに律法について高尚なメッセ−ジをし、自分でもそれを実行しているつもりなのです。しかし、客観的にそれは的外れも良いところで、結局のところ言っている通りのことが何も出来ていないのです。それは一体どこに原因しているかというと、「モーセの座に着いている」からなのです。「モーセの座」は神がモーセにのみ与えられた座、即ち神がモーセを通して語られた律法そのものを言うのであって、モーセ以外の者は何人といえども起立して、語られた律法に聴くという姿勢が求められるのです。ところが、ファリサイ派の人々は「モーセに聴く」、即ち聖書に聴き従うことよりも聖書を解釈し直し、しかも「モーセの座」についてモーセのように人々に教えようとしてきました。彼らの行動の全ては神の栄光のためにと言うよりも、人に見せるためのものとなってしまっていました。「聖句の入った小箱」(出エジプト記13:9)については先週お話ししましたように、神のみ言葉を忘れないための、自分自身に対する戒めとして額にくくりつけるのです。「衣服の房」(民数記15:38)は神の僕であることを忘れないため、神の戒めを忘れないために着物の四隅に付ける房のことです。しかしファリサイ派の人々、特に律法学者たちはこの小箱を大きくし、房を長くしています。何のためにでしょうか。残念ながら、彼らはこれをもって権威の象徴としてしまっているのです。

 律法の書は初め、祭司・レビ人と言った特に選ばれた人の手で書き写すという方法、即ち写本によって継承されていました。これを「成文律法」と言います。それ以外の人には口から口へと言い伝えられてきました。これを「口伝律法」と言います。成文律法はより確実な方法で継承されて行きましたが、それでも時代と共に解釈上困難を来す箇所が目立つようになってきました。そこで「タルムード」と言うものがイスラエル社会に出現するようになりました。「タルムード」とは研究という意味です。言ってみれば聖書注解書と聖書辞典を合わせたようなものです。インタープリターズとコンコルダンスを一冊にしたようなものです。一方聖書を持たない人のためには口伝えに教えるのですが、当然のことですが、会衆は耳に聴いても聖書のそこかしこで意味が良く分からないことがあります。そこで律法学者は会衆のために聖書の意味を解説してくれます。これを「ミシュナー」と言います。ミシュナーとは「解釈」とか、「釈義」という意味です。紀元前400年代後半、エズラ、ネヘミヤの時代に捕囚の地から帰国したユダヤ人のためにエズラが律法の朗読と解説をしたことに始まります。これが礼拝説教の起源です。「タルムード」にしても、「ミシュナー」にしても聖書を正しく継承し、神のみ言葉を誤りなく説き聞かせようとする純粋な思いから重要視されてきましたが、この仕事を委託されたファリサイ派の人々は、いつのまにか、共に学ぶという謙った気持ちを忘れて、常に「教えよう」という思いが支配的になってしまいました。そうすると、講壇があたかも「モーセの座」になり、聖書を解き明かす姿はあたかも神のように人を審くものとなっていくのです。主イエスがファリサイ派の人々を鋭く非難なさったのはまさにこのことです。礼拝に来た会衆の背中に戒めという重荷を積めるだけ積んで、「さあ、今週も元気で頑張ってらっしゃい」と送り出すのです。

 今日の御言葉は会衆の皆さんに与えられた戒めと言うよりも、現在この講壇に立つわたしたち、メッセンジャーこそ心して聴かなければならないと自戒しながら解き明かしているところであります。私は聖書をテキストに、ある時にはタルムード、またあるときにはミシュナーを参考にして解き明かします。必要な神学書、聖書注解書、聖書事典、聖書辞典、また時には新聞や雑誌からヒントを得てみ言葉の取り次ぎをします。しかしわたしも会衆の皆さんもあくまで聖書そのものがお互いの信仰と生活の規範でなければなりません。タルムードとして色々な学者の説を参考にしても、またミシュナーとして様々な解き明かしを聴くとしても、それが絶対ではないのです。それは聖書の解釈を助けてはくれますが、聖書そのものではないと言うことを忘れてはなりません。わたしたちは難しくても、分からなくても聖書の意味は聖書に聴くという姿勢を崩してはなりません。

 また同時に皆さんはわたしのことを「先生」と呼ぶ必要はありません。わたしはメッセンジャーであり、同時に牧会者であります。しかし、「先生」と呼ばれるお方はイエス・キリスト、ただお独りです。

 同時に皆さんは、お互いの間で謙虚でなければなりません。高ぶる思いという誘惑から自由でいられるように、日々のデボーションを欠かしてはなりません。主イエスは、言行不一致な指導者を前にしてさえ、彼らの行いは無視して、その語る言葉にのみ従いなさいと言われました。ましてや教会の中で学ぶべき人を見たなら、その人こそあなたのために神がお立てになった指導者ですから、その人に倣うという謙虚さと勇気を失わないようにしましょう。ヘブライの信徒への手紙の記者はその13:17の中で「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益となりません」と言っています。   祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

 私は今日聖書に対する姿勢、礼拝の時の姿勢、教会の中での牧師と会衆との関係、お互いの間の交わりについてその基本を学ぶことができました。一言で言えば、あなたが私たちに求めておられる心は「謙遜」であれ、「仕える者であれ」というものです。わたしたちはこの後、2002年度の定期総会を開こうとしています。この新しい門出に相応しいみ言葉を感謝します。お互いに仕える心で総会に臨ませ、新しい年度の歩みを始めさせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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