【主日礼拝メッセ−ジ要約】                            2002年5月5日

「ああ、エルサレム」

マタイによる福音書23章34-39節 

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 「エルサレム」とは神の平和という意味です。しかし、歴史的にエルサレムほど恐ろしい戦場となった町、血塗られた都はありません。実際エルサレムは神を知らない異邦人によって蹂躙されただけではありません。ユダヤ人自ら真の神によって立てられた預言者の血を流した都です。主イエスはこのような悲劇的な事件を振り返って、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」(ルカ19:44)と涙ながらに言われたのです。

 21世紀が明けたばかりというのに、主イエスは今もこのエルサレムの為に涙を流しておられます。エルサレムは相も変わらず流血の都だからです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教がそれぞれに礼拝堂や嘆きの壁やモスクで祈りを献げています。かの地のキリスト教もユダヤ教もイスラム教もみな「シャローム」(平和がありますように)という共通する挨拶語を使っているのに、その実態はアメリカ合衆国を巻き込んでお互いに憎悪と疑心暗鬼の虜になっています。

 5千年以上もの間戦い続けてきたイスラエル人とペリシテ人(即ちパレスチナ人)は今もエルサレムの主導権を巡って血を流し合っています。巨大なビルに飛行機ごと体当たりしたり、爆弾をその身に巻き付けてのテロ行為、片や戦車やヘリコプターによる機銃掃射で町中を爆撃する行為。このような暴力がお互いに神の名において繰り返されているのです。これこそまさに活ける神に対する冒涜、神を恐れぬ反逆に他なりません。しかしイスラエル・パレスチナ両国の、神を悲しませる悲しむべき行為は、それこそ世界中の罪の縮図と言えないでしょうか。

 そうです。主は今も涙ながらに「エルサレム、エルサレム、預言書たちを殺し、自分に遣わされた人々を打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われます。神はアダムに始まった人間の罪の歴史をご覧になり、悲しみを催しながら、主ご自身、「わたしがその親鳥だ」と救いの翼を張り広げておられます。罪を悔い改めて平和の神の下に帰ってくるのを待ち続けておられます。いかなる罪人もその羽の下に救いを求める者は神の審きを免れることが出来ます。十字架こそその翼なのです。

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【主日礼拝メッセ−ジ】                                 2002年5月5日

「ああ、エルサレム」

マタイによる福音書23章34-39節 

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 10年ほど前、大分県湯布院で全国の牧師研修会がありました。それが終わって、私たち数名の牧師が研修の仕上げと称してあちこちにある地獄巡りをしてきました。いわば牧師による地獄の下見旅行と言ったところです。それはもう良い湯加減で、こんな地獄ならいつでも来たいなあと言うのが私たちの感想でした。

 先週から主イエスが盛んに警告しておられる「ゲヘナ」と呼ばれる本物の地獄とはどのような世界でしょうか。それは「火の地獄」(マタイ18:9)と言われています。そこは「蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない」所(マタイ9:43以下)だそうです。当時エルサレム郊外にあるヒンノムの谷の一角に設けられた大きなゴミ捨て場がありました。ゴミを燃やす火は一年365日消えることはありません。蝿(はえ)の幼虫である蛆は余りの熱さにのたうち回りながら何とか逃れるために穴の外を目指して這い上がろうとするのですが、途中まで行くと猛烈な熱さのために力尽きて結局炎の中に落ちて行く仕組みになっているのです。イエスさまは地獄をその燃えさかるゴミ捨て場と蛆に譬えます。それはそれは恐ろしい絶望の世界です。

 こんな恐ろしい世界にいったい誰が落ちて行かねばならないのでしょうか。先週の聖書を思い出しましょう。それは「わざわいだ」と7度も繰り返して言われている律法学者、ファリサイ派に向けられているのです。「偽善」という罪が彼らを永遠の滅びの世界へと誘い込んでいるのです。だからわざわいなのです。その上彼らは彼らの先祖が預言者を殺したこと、即ち自分たちがその子孫であると認めているのです。これ以上に不幸なことはありません。彼らの先祖は預言者のメッセ−ジに耳を貸さずに、却って彼らを迫害し、殺してしまいました。

 「悪事千里を走る」という諺があります。どんなに上手に隠したつもりでも、悪事は必ずぼろを出し、それが噂となって人から人へと伝えられ、やがて露見するという意味です。しかし主イエスが指摘なさった彼らの罪は人の噂を根拠にしたものではありません。彼らの罪は何よりも聖書が明確に証言しているのです。アベルは人類の始祖アダムとエバの間に生まれた子どもです。彼は正しい礼拝をしたことの故に兄カインの逆恨みをかって殺されてしまいました。人類最初の殉教者です(創世記4:1−8)。ゼカルヤは南ユダの王ヨアシュの時代に父エホヤダの後継者として立派な預言者でしたが、彼を快く思わないヨアシュ王によって殉教しました(歴代誌下24:20−22)。私たちが手にしている聖書と違ってヘブル語の旧約聖書では「創世記」に始まって、「歴代誌下」が一番最後の書物として編集されています。つまり「聖書の初めから終わりまで、イスラエルの歴史は迫害の歴史、血塗られた歴史だ」と主イエスは言っておられるのです。

 皆さんご存知のように、「エルサレム」とは神の平和という意味です。しかし、歴史的にエルサレムほど戦場となった町、血塗られた都はありません。そこは神を知らない異邦人によって蹂躙されただけではなく、ユダヤ人自ら真の神によって立てられた平和の担い手である預言者の血を流した都なのです。主イエスはこのような悲劇的な事件を振り返って、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。」(ルカ19:44)と涙ながらに言われたのです。

 しかし主は過去に対してだけでなく、今もこのエルサレムのために涙を流しておられます。21世紀が明けたばかりというのに、エルサレムは相も変わらず流血の都です。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教がそれぞれに礼拝堂や嘆きの壁やモスクで祈りを献げています。かの地のキリスト教もユダヤ教もイスラム教もみな「シャローム」(平和がありますように)という共通する挨拶語を使っているのに、その実態はお互いに憎悪と疑心暗鬼の虜になっています。5千年以上もの間戦い続けてきたイスラエル人とペリシテ人(即ちパレスチナの人々)は今もエルサレムの主導権を巡って血を流し合っています。爆弾をその身に巻き付けてのテロ行為、戦車やヘリコプターによる機銃掃射で町中を爆撃する行為。このような暴力がお互いに神の名において繰り返されているのです。これこそまさに活ける神に対する冒涜、神を恐れぬ反逆に他なりません。またある政治評論家が21世紀の国際社会は「分断と統合」によって緊張関係が増幅する世紀になるであろうと言っていました。分断というのは排他的民族主義が台頭することによる緊張関係です。私たちの国でも今国会に重要法案が目白押しに提出されていますが、よく見ると外圧を利用してかつての軍事増強・一国主義の匂いを感じないでおれません。統合というのは例えばEU等に見られるように、ドルに対抗できる経済効果を目指して合併しようとする利害関係です。日本国内でも企業の合併が進んでいますが、それは真に友好の証としての合併と言うよりも、それによって他の企業を立ち行かなくさせるために他なりません。企業間の緊張は益々激しくなることでしょう。しかもこのような傾向は不思議なことにヨハネの黙示録に見る分断と統合のプロセスと余りに一致しているのです。黙示録に見る神と教会に対抗する勢力としての結集と言う形に余りに似ているのです。不気味です。

 主は今も涙ながらに「エルサレム、エルサレム、預言書たちを殺し、自分に遣わされた人々を打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われます。神はアダムに始まった人間の罪の歴史をご覧になって、深い悲しみを催しながら、それでも一人でも多くの人々がその罪を悔い改めて平和の神の下に帰ってくるのを待ち続けて下さっています。それがここに見る主イエスのお言葉です。かつてモーセは、「鷲が巣を揺り動かし 雛の上をとびかけり 羽を広げて捕らえ 翼に乗せて運ぶように ただ主のみ、その民を導き」(申命記32:11)と神を讃美します。ダビデは、「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ」(詩編36:8)と証し、イザヤもまた、「翼を広げた鳥のように、万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。これを守り、助け、かばって救われる」(イザヤ31:5)と歌います。このようにモーセも、ダビデもイザヤも神と人を親鳥と雛に譬えています。そしてイエスさまご自身、「わたしがその親鳥だ」と言っておられるのです。「主の名によって来られる方に祝福があるように」という者のために救いの翼が張り広げられているのです。いかなる罪人であってもその羽の下に救いを求める者は神の審きを免れることが出来ます。何故なら十字架こそその翼なのですから。

 最後に一つの讃美歌をご紹介しましょう。聖歌729番です。5節までありますが、その1,3,5節だけを読みたいと思います。長い歌なので折り返しの部分は最後の5節だけ読むことにします。

 

1節 鷲の その 巣びなを 呼び起こし その子の上に 舞いかける
   如(ごと) 主は その翼を差し伸べて 落ち行く われを担い
   給えり
 
3節 主を 切に待ち望む者には 新たに 力の与えられて
   鷲の如 翼を張り広げ 歩めど 走れど 倦(う)まざるべし
 
5節 殺され給いし 小羊こそ 再び 来たり給う 主なれや
   み空高く 我も 駆け上がり この小羊の 下に集まらん
(おりかえし)
   鷲の如く 鷲の如く 翼を広げて 我は上らん
   鷲の如く 鷲の如く 世界の果てへも 我は駆けらん。

 

祈りましょう。

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

エルサレムを嘆くイエス・キリストの御心を思うとき、私たちは確かに平和の道を知らず、人を憎み、人と争う罪、、偽善の罪、自己中心の罪を重ねる毎日でした。しかし主はそのような私たちをあたかも親鳥がその翼の下に雛鳥を呼び集めるように、私たちのようなどうしようもない者をも呼び集めて下さいました。十字架こそその一杯に張り広げられた救いの翼であることを知りました。主よ感謝します。いまこそ主のみ翼の陰に立ち帰ります。どうか私たちを赦して受け入れて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン

 


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