【主日礼拝メッセ−ジ要約】 2002年5月12日
メッセージ:高橋淑郎牧師
教会に集まる人々の生活環境を改めてじっくり見回してみると、実に様々な背景を持っていることが分かります。どの人も「自分が一番大変な生活をしている、何とかして欲しい」と救いを求めて集められているのです。人皆それぞれに悩みを抱え、先行き不安なのです。教会としてこれら多くのニーズにどのようにして応えることが出来るのか、上からの知恵、神さまからの知恵を必要とします。
旧約聖書に「箴言」と言う書物があります。箴言によると、知恵ある人とは天地の主である神に知られている自分を知り、神を畏れる心を持つ人だと言います。全ての人は礼拝を通して語られる神のみ言葉によって、知恵ある人に変えられるのです。認めてほしい、分かってほしい、助けて欲しいと願うばかりの私たちが、この世の中にたったひとり、私と言う人間を知っていて下さる神を発見したとき、私たちの心はこの神への聖なる畏れを持つ者とされ、「受けるよりも与えることの幸い」な人生のあることを知る者へと変えられるのです。これが聖書の言う知恵ある人です。聖書が言うように、「あらゆる善い業に励む者」となるのです。
この善い業には二通りの意味があります。「施し」という意味の善い業と、金品に替えがたい「愛の業」です。愛の業は全人格を投入してサポートすることです。使徒パウロがここで言う善い業はの愛の業を指します。全人格を投入する愛の業とはどんなサポートでしょうか。それは一寸した声かけをする人でしょう。影ながら誰かのために祈る人でしょう。貧しいながら神に対する最善の献げ物をしている人でしょう。見えない所で見えないように奉仕をしてくれている人でしょう。そのような人は決して私はいくら献げたとか、こんな奉仕をしたとか、声高に言う人ではありません。私たちの主イエス・キリストは無名の人を通して全ての人に愛の業を注いでおられます。このように「主にある家族」(教会)はこの世にない平安と喜びを保証する群れとなるのです。繰り返します。教会とは、全ての人が礼拝を通して孤独と不安から解放されて、天の父なる神さまに知られている1人なのだということを知り、心も新たに生きる希望を見出す群れとなり、大いなる喜びに包まれる交わりの場です。
メッセージ:高橋淑郎牧師
私たちの教会では今年から5月第2主日を「母の日」と呼ぶことをやめて、「父・母の日」と呼ぶことになりました。今日与えられた聖書によると、この呼び名こそ相応しいと思います。
さて、使徒パウロは若い牧師テモテに対してその一人びとりをどのように牧会すべきかを教えようとしてこの手紙を書きました。教会には老幼男女が集まってきます。従って教会は主にある家族なのです。そこでパウロは年老いた男女に対しては父親、母親のように尊敬の心を失ってはならないと教え、若い男女に対しては、多分テモテ自身も若かったのでしょうが、純真な思いで兄弟姉妹として教え諭しなさいと書き送っています。しかしテモテにとって問題は年老いて身寄りのないやもめ、そしてまだ年若いやもめに対する牧会です。この手紙は多分これについてテモテの質問に答えたものではないかと思います。パウロの助言は、「親に対する恩返しのチャンスとしてその家族が世話をするように教えなさい。教会がお世話する人は身寄りのない一人暮らしの人、59歳以下ではない人、教会において、その信仰姿勢において、教会員との交わりにおいて、そして特に教会の外にあっては社会人として模範的な生活をしていると評価されている人でなければならない」とかなり具体的です。年若いやもめや今日的に言うなら、やむを得ない理由で離婚した女性には再婚をして落ち着いた生活をするように勧めなさいと、これまた具体的です。独り身の女性はどんなに慎ましい生活をしていても世間の口に戸を立てることは難しいのです。「だからこそ反対者に悪口の機会を一切与えないように主の御前で清潔な日々を送るように」と、どこまでも丁寧に教えます。また使徒パウロが定めたやもめと呼ばれる人々が教会の援助を受けることのできる資格の一つに、「あらゆる善い業に励んだ実績のある人」(11節)という項目があります。
教会に集まる人々の生活環境を改めてじっくり見回してみると、一口に「教会は主にある家族だ」と言っても、現実にはそれほどロマンチックなものではありません。実に様々な背景を持っていることが分かります。どの人も自分が一番大変な生活をしている。だから何とかして欲しいと救いを求めて集められているのです。不安な日々を送っているのはやもめと呼ばれる人ばかりではありません。人それぞれに悩みを抱え、先行き不安なのです。
教会としてこれら多くのニーズにどのようにして応えることが出来るか、上からの知恵、神さまからの知恵を必要とします。最近の木曜祈祷会でお話したことですが、旧約聖書は39巻から成っているのですが、それは決して無秩序に納められているのではありません。日本語旧約聖書の編集では、5つの「律法書」、12の「歴史書」、5つの「文学書」(或いは「知恵の書」)、17の「預言書」となっていますが、ヘブル語聖書によりますと、最初の5つを「律法の書」、次の21を「預言の書」、最後の13を「知恵の書」というように編集されています。テモテ5章は、その「知恵の書」の一つである「箴言」と言う書物のダイジェスト版と言うことが出来ます。「箴言」が言う知恵ある人とは、天地の主である神に知られている自分を知り、この主を畏れる心を持つ人だと言います。つまり、私たちは独りぼっちではないと言うことです。あなたは主イエス・キリストの父なる神に知られているのです。主なる神に知られている自分であることをどうか自覚して下さい。そしてパウロが言うように、「あらゆる善い業に励む者」となって下さい。この11節の「善い業」について、殆どの聖書はこのように訳しています。勿論訳として正しいことは言うまでもありません。しかし、一つだけ「愛の業」と意訳しているエレミアスと言う聖書学者があると紹介している人がいます。その人は逗子第一バプテスト教会の横谷政孝牧師です。師が紹介するエレミアス先生によると、マタイ5−6章には、「施し」という善い業と、「愛の業」という善い業があります。施しは金銭面のサポートですが、愛の業は金銭ではなく、全人格を投入するサポートです。テモテ5:11の言う善い業とは、まさにこの「愛の業」のことを言っているのです。パウロはこの愛の業という実績がある人こそ教会の援助を受けるに相応しいと言います。全人格を投入する愛の業とはどんなサポートでしょうか。それは一寸した声かけでしょう。影ながらの祈りでしょう。貧しいながらレプタ2枚という最善の献金をしている人でしょう。見えないところで見えないように奉仕をしてくれている人でしょう。そのような人は決してわたしはいくら献金したとか、こんな奉仕をしたとか声高に言う人ではないでしょう。
主にある家族は決してロマンチックな夢を与えてくれる群れではありません。しかし 礼拝を通して互いに尊敬し、学び合うことの中で無名の人から愛の業を受けて、知らぬ内に生きる希望が与えられていることに気づきが与えられる、そう言う群れなのです。繰り返しますが、今年から私たちの教会は今日という日を「母の日」とは言わず、「父・母の日」と呼ぶことにしました。今日示された聖書によると、これは私たちの教会の選びとか、決断を超えた上からの導きであったと確信できます。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
あなたは今朝、礼拝に来られた一人びとりに「あなたは独りぼっちなんかじゃあない。礼拝を通してわたしがあなたを知っていること、どれほどあなたを愛しているかを知ってほしい、気づいて欲しい」と語りかけて下さいました。真にあなたは教会の交わりを通して、この世にない深い交わりを与えて下さいました。わたしの隣にいる人が、後ろにいる人があなたの愛でわたしを愛し、わたしのために祈ってくれているのではなかったかと言うことを示されました。
あなたを通して教会を見るとき、真に教会こそ血肉に優る神の家族であることに気づかされました。主よ感謝します。このように幸いな交わりに加えて下さった主よ、今日からわたしにもその愛の業をもってわたしの隣人に、血肉の家族に仕えることの出きる者として下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン