【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2002年6月2日
マタイによる福音書24章15-28節
主イエスは「山へ逃げなさい」と言われました。世の終わりの予兆を感じさせる憎むべき破壊者が聖なる場所に立つ時は来ます。それがいつの日か分かりませんが、主が語られた以上、それは必ず実現します。主イエスは選ばれた人々に対して憎むべき破壊者と「勇気を奮って戦え」とか、「死を覚悟してもそこに留まれと」は仰いません。「逃げなさい」と言われるのです。聖なる所に立ってそこを破壊しようとする者、キリストの教会を破壊しようとする恐るべき力を前にした時、教会にとって甚だしく大きな苦難がそこから始まるのです。それはもう私たち一信徒の手に負える相手ではありません。
「しかし」と主イエスは言われます。「神は選ばれた人たち、キリストの教会の為にその期間を縮めてくださる」のです。期間を縮めて下さるとはどう言うことでしょう。神がサタンをその足の下に踏み下し、永遠の勝利を得られる日を早めて下さると言うことです。「山へ逃げなさい」と言われた主のお言葉を思いましょう。聖書によると、「山」は神と出会う場であり、神の取り扱いを受けるところであります。モリヤの山でアブラハムが自分の独り子に優って神を愛する心を示した時、神はアブラハムの信仰を祝福されました。神の山ホレブでモーセはエジプトで苦しむ同胞の救いのために神の召命に応えました。またモーセはシナイの山十誡を受けました。新約聖書にも山は神との聖なる交わりの場としてしばしば用いられています。
これによって分かるように、山は単なる緊急避難の場ではなく、祈りの場、神の豊かな取り扱いを受けることの出来る場なのです。私たちも日頃から平和なときも、試練に悩まされるときも山に逃れてそこで祈りましょう。里は人がうごめき、色々な誘惑の手が迫ってきます。しかし山は神と2人きりになるに相応しいところです。その所で真剣に祈るとき、神は不思議にもあなたのためにその苦難の期間を縮めていて下さっていることを知るでしょう。平時にこのような訓練を積んだ人こそ、たとえ終わりの日に臨んで未曾有の苦難を経験するときにも祈りの山が示され、神と深い交わりの時を持つことが出来、しかもその所でいつ終わるとも見当さえつかなかった憂うべき苦難の期間が縮められていることを知るのです。
マタイによる福音書24章15-28節
24−25章を「小黙示録だ」という人があります。確かにちょっと読んだだけではその意味を掴むのに苦労します。この世界は神の定められた終わりの日に向けて益々ひどくなること、だからその日に備えて目を覚まして祈れと教えられているのです。そこで私たちは今日の聖書テキストから主イエスの2つのみ言葉に注目したいと思います。
1. 「山に逃げなさい」
第一に、主イエスは「逃げなさい」と言われました。「憎むべき破壊者が聖なる場所に建つのを見たら、その時ユダヤにいる人々は、山に逃げなさい」とは旧約聖書のダニエル書(9:27、11:31、12:11)という預言書からの引用です。歴史的には紀元前167年、ギリシャの王アンティオコス・エピファネスがエルサレムの神殿に、彼らの神ゼウスを祭り、祭壇にはユダヤ人が汚れた動物として避けてきた豚を供えた出来事が思い出されます。また紀元70年、ローマの大軍は熱心党と呼ばれるユダヤ人や愛国的なユダヤ人の立てこもるマサダの要塞を取り囲み、先ず兵糧攻め、次に地下壕を掘りながら要塞切り崩しをはかり、遂に侵入に成功しました。しかし要塞の中はしんと静まりかえっています。それもそのはず、最早これまでと覚悟を決めたユダヤ人達が集団自決に近い最期を遂げていたのです。さすがのローマ人も目を背けるほどの修羅場であったと言うことです。60年前の沖縄戦争末期の状況と似ています。
あれから2000年も経ちましたが、まだ終末は来ていません。しかし主イエスは「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来る」と言われます。主は将来起こる恐るべき日について、その時代に生きるユダヤ人が聴いて分かるように彼らの身の回りのことを題材にして語られました。当時ユダヤ人の住宅の殆どは直方体です。平らな屋根で屋上には外からの階段を利用すると、誰でも自由に上り下りできます。そこには旅人の仮宿泊所として小部屋を造ることもあります。また礼拝や祈り、時には娯楽の場としても用いられます。日中と夜の温度差の激しいこの地方で上着は寒さを凌ぐ夜着(よぎ)を兼ねるものです。屋上にいる人も畑仕事をしている人も、その日その時には着の身着のままでとにかく山に向かって一目散に逃げなさいというのです。律法学者が定めた安息日規定によると安息日に許されている移動距離は2000アンマ、約1H足らずです。だから山までの距離を考えて、その日がせめて冬や安息日でないことを祈れと言います。
結局は主イエスや福音書著者も安息日規定に縛られていたのでしょうか。そうではありません。むしろその日が安息日と重なり、しかも山までの距離が1Hを越える距離であった場合、「逃げよ」とお命じになる主のみ言葉と、「安息日規定を守れ」と命じる律法学者の掟の間で迷う弱い信仰者に対して、「その日があなたたちのために安息日と重ならないように祈れ」と配慮の行き届いたお言葉として読むべきです。世の終わりの予兆を感じさせる憎むべき破壊者が聖なる場所に立つ時は来ます。それがいつの日か分かりませんが、主イエスが語られた以上、それは必ず実現します。主イエスは選ばれた人に対して憎むべき破壊者と「勇気を奮って戦え」とか、「死を覚悟してもそこに留まれと」は仰いません。「逃げなさい」と言われるのです。聖なる所に立ってそこを破壊しようとする者、キリストの教会を破壊しようとする恐るべき力を前にした時、教会にとって甚だしく大きな苦難がそこから始まるのです。それはもう私たち一信徒の手に負える相手ではありません。だから、私たちは逃げるしかありません。
2. 「しかし」というみ言葉
では、憎むべき破壊者の前に無力な教会はそのまま地上から消え失せてしまうのでしょうか。いいえ、主イエスはもう一つの約束を与えて下さっています。22節の「しかし」というお言葉がそれです。「神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」と言う慰めに満ちたお言葉の故に私たちには希望があります。「神に選ばれた人たち」とはキリストの教会です。キリストの弟子である皆さん一人ひとりのことです。この憎むべき破壊者、「悪魔」とも呼ばれる神の敵「サタン」の目的は神に選ばれた者を堕落させて、自分に定められた地獄への道連れにしようとすることです。彼は誠に巧妙な手口で教会を破壊し、キリスト者の信仰を根底から覆そうとします。反キリストであるサタンはその姿を変えて偽キリストとして教会の中に入り込んできます。聖なる場所、講壇に立って偽りの福音をもってキリスト者を誘惑することでしょう。またこれが新しい教会の形であると言うように、あらゆる麗しい言葉を並べては人々の心を礼拝の場から引き離して真実なる所、立つべき位置を見失わせようとすることでしょう。まるで死体に群がるハゲワシのように、サタンは悪霊どもを引き連れて、あやふやな信仰の人を集中攻撃するように誘惑するのです。
こうした憎むべき教会の破壊者に対して、どこまでもキリストの僕としてその信仰を貫こうとする者にとっては大きな苦難の日々となることでしょう。新しい命を産み出そうとする妊婦のように、また乳飲み子を抱える若い母親のように新しい教会を産み出そうとする教会、新しい教会を誕生させたばかりの教会の苦しみはなお大きいものがあります。産まれたばかりの教会こそサタンの格好の餌食です。彼はまた「わたしこそメシアだ」とか、「わたしの教える教義こそ新しい教会の模型だ」と攻撃を加えてくるからです。こうした攻撃の期間が長ければ長いほど教会の土台は揺らぐものです。「しかし」と主イエスは言われます。「神は選ばれた人たち、キリストの教会の為にその期間を縮めてくださる」のです。期間を縮めて下さるとはどう言うことでしょう。それは神がサタンを裁き、その足の下に踏み下し、永遠の勝利を得られる日を早めて下さると言う意味です。
そこでもう一度「山へ逃げなさい」と言われた主のお言葉を思いましょう。聖書によると、「山」は神と出会う場であり、神の取り扱いを受けるところであります。アブラハムがその子イサクを神に献げたモリヤの山は現在のエルサレムです。神はアブラハムの信仰を祝福されました(創世記22章)。次にエジプトの縄目に苦しむ同胞の救いのためにエジプトへ行けとモーセを召された神の山ホレブ(出エジプト記3章)。最も有名な出来事としてはモーセが十誡を受けたシナイの山です(出エジプト記20章)。これらの山々は今もイスラエルを観光旅行する人の為の大切なコ−スとなっているそうです。新約聖書にも山は神との聖なる交わりの場としてしばしば用いられています。
これによって分かるように、山は単なる緊急避難の場ではなく、祈りの場、神の豊かな取り扱いを受けることの出来る場なのです。私たちも日頃から平和なときも、試練に悩まされるときも山に逃れてそこで祈りましょう。里は人がうごめき、色々な誘惑の手が迫ってきます。しかし山は神と2人きりになるに相応しいところです。その所で真剣に祈るとき、神は不思議にもあなたのためにその苦難の期間を縮めていて下さっていることを経験できるでしょう。平時にこのような訓練を積んだ人こそ、たとえ終わりの日に臨んで未曾有の苦難を経験するときにも山が示され、神と深い交わりの時を持つことが出来、その所で苦難の期間が縮められていることを知るのです。祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
私たちはともすればこの世がいつまでも続くものと錯覚し勝ちですが、今日、全てはあなたのプログラムの中にあることをお教え下さいます。サタンは私たち以上に自分の終わりの近いことを悟って、私たちをあなたから引き離そうと躍起になっているからです。しかし私たち選ばれた者には逃れるところがあります。あなたの御許である祈りの山です。あなたに頼る者は、たとえ日々言葉に尽くし得ない艱難の中にあってもあなたはその期間を縮めて下さいます。それ故私たちには平安があります。どうか私たちを通して更に多くの人を同じ恵みに満たして下さい。憎むべき破壊者の手から彼らをお守り下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン