【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2002年7月7日
マタイによる福音書24章45-51節
この譬え話の「主人」とはイエス・キリストです。彼は十字架に死んで甦った後天に挙げられましたが、再び来ると約束されました。それはいつなのか私たちには分かりません。次に「主人の家の使用人たち」とはキリスト教会のメンバーのことです。「使用人たちの上に立てられた僕」とは、教会の牧師、執事、教会学校のリーダー、聖歌隊を指すと理解して良いでしょう。使用人たちの上に立てられた人々の仕事は「人々に食事を与えること」でした。人々に食事を与えるとは、霊の糧である聖書の説きあかしです。使用人たちもその上に立てられた僕も基本的にはキリストの御名の故に仲間でなければなりません。主イエス・キリストにあって兄弟姉妹です。僕であるクリスチャンの仕事は伝道ですが、伝道とは人々に「あなたたちも神に愛された私たちの仲間なのですよ」と伝えて回ることなのです。
牧師の第一の勤めは何をおいても教会に来る人に、時には教会に来ることの出来ない人々にも神のみ言葉を語り聴かせることです。神の愛、人の罪、イエス・キリストの救いを間違いなく宣べ伝えなければなりません。それを怠り、自分の欲望を追い求めるような者は重大な職場放棄と言う罪です。そしてそれは人々に、「主イエス・キリストの再臨は遅い、いやないだろう」と言っているのと同じ罪です。これこそ偽善者の証拠です。
執事の勤めも同じです。ただ事務的な勤めをすることが執事の仕事ではありません。「執事」(ギリシャ語で「ディアコノス」と言います)の語源は「食卓の給仕をする者」という意味から来ています。執事として選ばれたステファノもピリポも各地に伝道に出かけました。仙川キリスト教会の執事さんたちも礼拝に来られる人々に聖書の解き明かし、イエス・キリストをのメッセンジャーとして講壇を守って欲しいのです。
教会学校のリーダーや聖歌隊のメンバーの働きも重要です。あなたたちのご奉仕のお陰でどれだけ多くの人が充実した礼拝と分級の時を持つことが出来たか分かりません。また聖書の学びを通して、讃美のメッセ−ジ奉仕を頂いてどれほど多くの人々が慰められ、生きる勇気と希望が与えられたか分かりません。感謝です。これからも主イエス・キリストがおいでになるまで忠実にこのご奉仕を続けて下さい。
マタイによる福音書24章45-51節
これまで私たちは主イエス・キリストの再臨について学んで参りましたが、先週は、「だから心の目を開いて、その日を待ち望んでいなさい」と言う主の御命令の言葉を聴きました。しかし待ち望めと言われても実際にはどうすればよいのでしょうか。その答えは45節以下の譬え話の中に見られます。
主イエスは、「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」と言われました。
「僕(しもべ)」とは奴隷のことですが、この人はよほど主人の信頼があつかったようです。外の「使用人」とは、もともと彼と同じ僕仲間ですが、外の使用人たちに食事の供給をする重要な任務を与えられました。「使用人たちの上に立てて」と言われているように、出来上がった料理を使用人たちのテーブルに運ぶだけでなく、調理室に働く使用人の差配、もっと遡れば、農園や牧場で働く人々の管理と収穫した農産物や畜産物の管理まで任されていたのではないでしょうか。しかしここで言う「時間どおり」の時間には「カイロス」というギリシャ語が用いられていますが、それは朝、昼、晩という短い間隔の時間を意味しています。また1ヶ月、2ヶ月、半年というように巡り巡る季節、或いは1年、2年、5年、10年と言った長期的な「時」にも該当します。
数多い使用人の上に立てられたとは言え、奴隷の立場でご主人に「いつお帰りですか」と聞くようなことは許されません。彼の仕事はもっぱらいつ帰ってくるかも知れない主人の留守中、明けても暮れても使用人に食事を提供することです。それは彼にとってある意味で単調な仕事であったでしょう。主人は朝出かけて行って夕方帰ってくるのか、1週間か10日か1ヶ月先か半年か、もしかしたら何年も帰ってこないのかも知れません。
主人がいつ帰ってくるか分からないと言う状況の中で、主イエスの譬え話の登場人物は2種類に分かれます。一方は主人の帰りの早い遅いに関係なく、あくまで忠実に与えられた任務を黙々と果たす人です。そのような人は心に主人を迎える準備が充分ですから、主人の方でも更に高い立場に彼をおき、全財産を任せるに足ると信頼されるのです。しかしもう一方は初めの内こそ、それが自分に与えられた仕事だから責任を全うしようと一生懸命だったでしょうが、仕事の手順を覚えると段々手を抜くことを覚え、その内に本来仲間であるはずの他の使用人たちに、自分がしなければならない仕事を力ずくで押しつけるようになりました。そして彼自身は昼間っから仲間を呼び集めて飲めや歌えのどんちゃん騒ぎに明け暮れています。このように彼は職権濫用と、職務怠慢という2つの罪を犯しました。しかしその時、彼にとって全く思いがけない日に突然主人が帰ってきました。これが人間社会の事柄を扱ったお話であれば、彼はこの2つの罪を償うことで再び社会復帰の可能性もあるでしょう。それにしてもこの僕は何故これほど大変な罪を2つも犯すことが出来たのでしょうか。これこそこの譬え話を通して主イエスが問題にしておられることです。彼にとって最も致命的な罪は「主人(の帰り)は遅い」という都合の良い予想です。勿論それは何の根拠もない一方的な思いこみです。ここに彼の根本的な罪があるのです。上っ面の職権濫用や職務怠慢という罪を裁き罰するだけだなく、その罪の動機となった主人に対する不誠実、不忠実こそ問われなければなりません。当然この悪い僕は主人から厳しく察せられ、偽善者たちと同じ目に遭わせられたというのです。
さて、主イエスのこの譬え話にはどのような意味があるのでしょうか。そしてこれは誰に向かっての教えなのでしょうか。譬え話に登場する人物を追って、この事を学ぶことにしましょう。「主人」とは勿論イエス・キリストです。イエスさまこそ教会の主だからです。彼は十字架に死んで甦った後天に挙げられましたが、再び来ると約束されました。それはいつなのか私たちには分かりません。次に「主人の家の使用人たち」とはキリスト教会のメンバーのことです。「使用人たちの上に立てられた僕」とは、教会の牧師、執事、教会学校のリーダー、聖歌隊を指すと理解して良いでしょう。もっと普遍的に言うなら、「使用人たち」とは将来教会に導かれて救われるであろう世の人々と言うことができます。その意味で「使用人たちの上に立てられた僕」とは私たち一人ひとりのクリスチャンを指すと言えます。使用人たちの上に立てられた人々の仕事は「人々に食事を与えること」でした。人々に食事を与えるとは、霊の糧である聖書の説きあかしです。使用人たちもその上に立てられた僕も基本的にはキリストの御名の故に仲間でなければなりません。主イエス・キリストにあって兄弟姉妹です。僕であるクリスチャンの仕事は伝道ですが、伝道とは人々に「あなたたちも神に愛された私たちの仲間なのですよ」と伝えて回ることなのです。
牧師の第一の勤めは何をおいても、教会に来る人に、時には教会に来ることの出来ない人々にも神さまのみ言葉を語り聴かせることです。神の愛、人の罪、イエス・キリストの救いを間違いなく宣べ伝えなければなりません。それを怠り、自分の欲望を追い求めるような者であるなら、それは重大な職場放棄になります。そしてそれは人々に主イエス・キリストの再臨は遅い、いやないだろうと言っているのと同じ罪です。これこそ偽善者の証拠です。
執事の勤めも同じです。ただ事務的な勤めをすることが執事の仕事ではありません。「執事」(ギリシャ語で「ディアコノス」と言います)の語源は「食卓の給仕をする者」という意味から来ています。執事として選ばれたステファノもピリポも各地に伝道に出かけ、特にステファノは大胆にイエス・キリストを宣べ伝えたために、使徒たちより先に殉教しました。仙川キリスト教会の執事さんたちも殉教しなさいとは言いませんが、牧師が教会を留守するようなときには、礼拝に来られる人々に聖書の解き明かし、イエス・キリストをのメッセンジャーとして講壇を守って欲しいのです。これから執事会の中で宣教奉仕の学びをご一緒にしたいと祈っています。
教会学校のリーダーや聖歌隊のメンバーの働きも重要です。あなたたちのご奉仕のお陰でどれだけ多くの幼子から大人に至るまで充実した礼拝と分級の時を持つことが出来たか分かりません。また聖書の学びを通して、讃美のメッセ−ジ奉仕を頂いてどれほど多くの人々が慰められ、生きる勇気と希望が与えられたか分かりません。感謝します。これからも主イエス・キリストがおいでになるまで忠実にこのご奉仕を続けて下さい。
最後に今日礼拝に来られた求道中のあなたたちに申し上げたいと思います。あなたたちはこのような神の僕の働きを通して毎週霊の糧を受けているはずです。どうかその霊の糧である聖書と讃美のメッセ−ジを無駄に聞き流さないで下さい。神さまは毎週の礼拝を通して、聖書と讃美歌を通してあなた一人びとりに語りかけておられます。「あなたはわたしの目に尊い者、とても高価で愛すべき宝物である」と。ですから、あなたたちの方でもこの神の愛の語りかけに一日も早く信仰をもって応答して下さい。主イエス・キリストはその日を待ち望んでおられるのです。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
今朝もあなたのみ言葉を感謝します。地上の教会はイエス・キリストを頭とした神の僕の集まりであること、私たちはこの教会の一員としてあなたから伝道の使命を授かりました。それは一人でも多くの人がその罪を赦され、救いに与り、永遠の生命を賜り、私たちと同じあなたの僕仲間であることをお知らせする為です。私たちは少し先に救われましたが、それは私たちがそれぞれのポジションで忠実な管理人として、人々に霊の糧を供給するという使命を果たす為であります。
どうか、あなたがいつおいでになっても良いように、果たすべき使命に忠実な者とならせて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン