【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2002年7月28日
マタイによる福音書25章14-30節
今日の聖書テキストは最後の審判の様子を通して私たちにその備えをせよという主イエス・キリストの譬え話ですが、例えばロシアの文豪トルストイが書いた作品の一つ、「靴屋のマルチン」はこの譬え話の前半部分を題材にしています。またイギリスの文豪ディケンズが書いた作品の一つ、「クリスマス・キャロル」はどちらかというと、この譬え話の後半部分をヒントにしていると言うことが出来るかも知れません。
第二次大戦が終わって間もなく、北原怜子という少女はカトリック教会に導かれてイエスさまを救い主と信じる決心をし、バプテスマを受けました。彼女は何か神さまに仕えることをしたいと思っていましたが、何をして良いか分かりません。そこへゼノ神父が彼女のもとに来て「アナタ、カワイソウナ人ノタメ、オ祈リドッサリタノミマス」と言い残して、当時「ありの町」と呼ばれていた貧民街に入って行きました。彼女は勿論祈りました。同じ日本人が見向きもしない貧しい人に一生懸命仕えている神父の姿を見て、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである。」(マタイ25:40)とのイエスさまの教えが分かりました。
彼女は修道院に入ってシスターになるつもりでしたが、ゼノ神父のいるありの町に入って行き、屑拾いの仲間入りをして一緒に働きました。そうしながら子ども達に読み書きを教えたり遊んだり、8年間そう言う暮らしをしていましたが、ついに過労で倒れてしまいました。仲間の手厚い看護のお陰で病気は治りましたが、もう働くことが出来なくなりました。これからは一人ひとりの名を挙げて祈ることが与えられた仕事にしようと、特に子どもたちのために祈りました。隅田公園を追われた人たちが8号埋め立て地に住めるようにと祈りました。祈りは聴かれて8号埋め立て地に教会を中心とした社会を造りました。それが彼女の元気な姿を見た最後でした。彼女は見る間にやせ衰え、ついに病に倒れて帰らぬ人となりました。北原怜子さんは大学教授の娘として生まれ、薬科大学を卒業しましたが、イエスさまに出会い、29歳で死ぬまで「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ2:38)と言う、イエスさまの母マリヤのような信仰で生涯を貫きました。後に彼女のことをありの町のマリヤと呼ぶようになったと言うことです。
マタイによる福音書25章14-30節
今日の聖書テキストは最後の審判の様子を通して私たちにその備えをせよという主イエス・キリストの譬え話ですが、例えばロシアの文豪トルストイが書いた作品の一つ、「靴屋のマルチン」はこの譬え話の前半部分を題材にしています。またイギリスの文豪ディケンズが書いた作品の一つ、「クリスマス・キャロル」はどちらかというと、この譬え話の後半部分をヒントにしていると言うことが出来るかも知れません。この譬え話はそれほど有名で多くの人に親しまれ、また愛読されてきました。
審判主(さばきぬし)の右側に分けられた人たちも、左側に分けられた人たちも、どうして自分がそれぞれの立場におかれるのか良く分かっていません。その時主イエスは彼らに、「あなたたちはわたしに…をしてくれたからだ」。また「…をしてくれなかったからだ」と審判の理由を説明されます。この説明を聴いて分かることは私たちが日常の信仰生活、教会生活の中で単に人に親切にしたか、しなかったかと言うに留まらず、出会う全ての人の中にイエス・キリストを認めてイエスさまに仕える心でその人に仕えたか否かが問われているのです。
誰にでも少々の親切心や優しい心はあるものです。しかしその親切心や優しさには限界があります。主イエスは「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。そのようなことは神さまを知らない人でもしている」(マタイ5:46−47)と指摘しておられます。ごく親しい友人や限られた身内の間だけの親切心や優しさでもないよりは良いに決まっています。しかしそれで十分と思うのは間違いだと主は言われます。
随分以前に「おしん」という題名のTVドラマが高い視聴率を得ました。主人公おしんは東北のとても貧しい農家に生まれましたが、家のことを少し手伝える年頃になると口減らしのために奉公人として売られて行きます。食べることもままならない時代のドラマです。当時そのドラマを毎朝楽しみに見ていたお年寄りも皆同じように貧しさを潜り抜けてきた人ばかりでした。イエスさまの時代もそうです。丸1日口に入れるものが何もないのが当たり前と言った時代でした。そんな時代に家族のためならまだしも、見ず知らずの人が飢えているからと言って食べさせることなどできっこないのです。或いは日本でも昔は何時間もかけて水を汲みに行ったという経験を持つ人が多かったようです。今でも国によってはコップ1杯の水でほんの少し口に含み、歯を磨き、残りで顔や手を洗うという生活をしているそうです。主イエスの時代のユダヤ地方でも深刻でした。そんなに貴重な水を全くの他人に与えることなどとても出来ないはずです。
しかし最後の審判の日、右側にいる人はそんなに厳しい状況に身を置きながら、見ず知らずの飢えている人に食べさせ、乾いている人に水を飲ませたのです。それだけではありません。旅人をもてなして宿を貸し、裸の人に着せ、病人を見舞い、牢にいたときに訪ねてあげたのです。その人はそう言うことを特別のこととは考えていませんでした。困っている人がいる、だから自然に手を差し伸べたのです。そして次の瞬間、右の手のしたことを左の手に告げる間もなく忘れてしまっていました。最後の審判の時、主イエスから「あれはわたしにしてくれたことなのだよ」と言われたときに改めて思い出すという人なのです。詩編16:8に、「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。」という1節がありますが、まさにこのような人なのです。静かに礼拝を献げ、忠実に祈祷会に出席してみ言葉に聴き、生活の場に遣わされたときに教えられたみ言葉を思い起こして主に相対する心で全ての人と相対し、主に仕える心で全ての人に仕える人なのです。
それでは左側に選り分けられた人はどうでしょう。きっと自分では最後の審判の日に備えて自信のある人なのかも知れません。「わたしはあれをした、これをした」と小さな奉仕を大袈裟に世間に告げますが、その心は主に相対していると言うよりも世間の評価と相対しているのです。礼拝や祈祷会を欠席することに余り心痛まない人なのかも知れません。み言葉を学ぶという謙った心、悔い改める思いが欠けていますから、み言葉に聴いているようで、実は自己流の聖書解釈を曲げない人なのかも知れません。そしてこの人は親切にする値打ちのある人か、ない人かを瞬時に選び取る能力を持っています。このような人は主なるキリストから左に選り分けられたとき、意外な顔をして、「
主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と尋ねるのです。つまり、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」(マタイ7:22)と言うでしょう。また「ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、またわたしたちの広場でお教えを受けたのです」(ルカ13:26)と言うでしょう。しかし主はその人たちに対して、「わたしはきっぱりとこう言おう、『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」と。
親切心や優しさは大切です。しかし、「絶えず主に相対する心」を見失い、人の評価にのみ相対する心がある限り、その親切心や優しさの範囲は限られてしまいます。愛の業をそっと出来ないで、自慢ではないがと言いながら、世間に告げたくなります。主イエスは言われます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)と。
最後に全ての道で主を認め、全ての人の中にキリストを見て仕え通した一人の少女の物語りを紹介したいと思います。
第二次大戦が終わって間もなく、北原怜子という少女はカトリック教会に導かれてイエスさまを救い主と信じる決心をし、バプテスマを受けました。彼女は何か神さまのご用に仕えることをしたいと思っていましたが、何をして良いか分かりませんそこへゼノ神父が彼女の下に来て、「アナタ、カワイソウナ人ノタメ、オ祈リドッサリタノミマス」と言い残して、当時「ありの町」と呼ばれていた貧民街に入って行きました。彼女は勿論祈りました。でも、同じ日本人が見向きもしない貧しい人に一生懸命仕えている神父の姿を見て、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである。」(マタイ25:40)とのイエスさまの教えが分かりました。彼女は修道院に入ってシスターになるつもりでしたが、ゼノ神父のいるありの町に入って行き、屑拾いの仲間入りをして一緒に働きました。そうしながら子ども達に読み書きを教えたり遊んだり、8年間そう言う暮らしをしていましたが、ついに過労で倒れてしまいました。仲間の手厚い看護のお陰で病気は治りましたが、もう働くことが出来なくなりました。これからは一人ひとりの名を挙げて祈ることが神さまから自分に与えられた仕事と導かれて、特に子どもたちのために祈りました。隅田公園を追われた人たちが8号埋め立て地に住めるようにと命に代えて祈りました。祈りは聴かれて、8号埋め立て地に教会を中心とした社会を造りました。それが彼女の元気な姿を見た最後でした。彼女は見る間にやせ衰え、ついに病に倒れて帰らぬ人となりました。北原怜子さんは大学教授の娘として生まれ、薬科大学を卒業しましたが、イエスさまに出会い、29歳で死ぬまで「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ2:38)と言う、イエスさまのお母さんとして選ばれたマリヤのような信仰で生涯を貫きました。後に彼女のことをありの町のマリヤと呼ぶようになったと言うことです。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
今日もあなたのみ言葉を感謝します。あなたは私たちが互いに愛し合うべきことを教えて下さいました。しかしこの世には互いに愛し合うことを難しくする障壁が立ちはだかっています。しかしその障壁こそ私たち自身の高慢さであり、自己中心そのものであることを知りました。
どうか主よ、今日から始まる新しい週の旅路も、「すべての道で主を認める」ことと、「常に主を我が前に置く」という今日の御言葉にあるように、全ての人の内に宿っておられる御霊なるイエスさまに出会うことのできる信仰の眼差しを与えて下さい。そして全ての人、特に最も小さな者に仕えることを得させて下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。
アーメン。