【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2002年8月4日
マタイによる福音書26章1−5,14−16節
イスカリオテのユダは主イエスの弟子の一人でしたが、一つ気になることがあります。それは主イエスに対する呼びかけです。他の弟子たちは時に「先生」と呼ぶことはありますが、ここと言う時は必ず「主よ」と呼びかけています。イエスさまを神の子と信じていたからです。しかしユダだけはどの福音書を読んでも徹底して「先生」と呼びます。「主よ」と呼んではいません。ユダは主イエスを律法の教師、ラビとして評価しましたが、天の父なる神の独り子「メシヤ、キリスト」と認めるにはついに至らなかったのです。彼にとってイエスさまは聖書研究の為の立派な教師ではあっても、信じ従うべき主なるキリスト、神の独り子ではありませんでした。彼は何かを学び取って自分を変えようとしたのかも知れませんが、主イエスを聖きお方として、自分の内にある罪の性質と真剣に向き合いこの方の御前にその罪を徹底的に砕いていただくという回心の機会を持とうとしなかったのです。教師であるイエスに期待することはあっても主なる神が自分をどのように導いて下さるかという謙った心を持とうとしなかったのです。彼は自分自身を主の御前に一人の僕として謙る代わりに、イエスさまを自己の欲望の奴隷としてしまったのです。
愛する兄弟姉妹、あなたは毎週礼拝を献げておられます。そのあなたに敢えて問いかけたいのです。あなたにとってイエスさまはどのようなお方でしょうか。偉大な聖書の先生止まりでしょうか。あなたの生活の幾分かを助けてくれる重宝な「パシリ」なのでしょうか。もしあなたにとってイエスさまとの関係がその程度のものであるなら、あなたはきっと切羽詰まると、イエスさまを奴隷のように捨てたくなることでしょう。2000年前にユダヤの人々がイエスさまを十字架につけたように、あなたもイエスさまを十字架につけた一人となることでしょう。
主イエスが十字架に死なれたのは、私たちが受けるべき神の審きをその身に代わって下さる為です。主イエスの十字架は、全ての罪人を救う神のご計画だったのです。神ご自身私たちに対して和解の手を伸べて平和の道を教えて下さいました。あなたも手に握りしめている銀貨30枚(神の御子を売り渡すという傲慢な心)を捨てましょう。今こそイエスさまを主なるキリストとして信じ、従う者となって下さい。
マタイによる福音書26章1−5,14−16節
1945年以後、毎年8月6日と9日は核兵器のもたらす悲惨さを2度と繰り返さないことを誓い、平和の尊さを心に留める日であります。戦後間もなく、広島・長崎の小学生から高校生までの子どもたちに被爆体験を語ってもらったものを一冊の本にまとめて、「原爆の子」という題で出版されました。どの子も原爆が投下された直後の生々しい体験を克明に語っています。悲惨で目を背けたくなる内容です。その彼らが結びとして異口同音に書いていることは、原子力の持つ巨大なエネルギーを戦争のためでなく、平和の目的に使える時代を待ち望むと言うものでした。確かに科学は進歩し、今日私たちの国では電力の大半を原子力に頼っています。しかし、原子力は確かに一面現代社会に大きな役割を果たしていますがリスクも大きいことは、1980年代旧ソビエト領ウクライナで起きたチェルノブイリ事故のために今もそこに住む人々の健康を蝕んでいる事実によって証明されています。私たちの国でも新潟県や茨城県の原子力発電所で大きな事故があり、今やこれに代わるエネルギー源の開発を検討する時期が来ているように思います。しかし核兵器がこの地上からなくなり、原子力の問題が解決したら、世界は本当に平和になるのでしょうか。今日の聖書テキストによると、問題の根はもっと深い所にあることを教えています。
主イエス・キリストはこれまで地上における33年の生涯を通してこの世の底辺にある人々、滅び行く救いがたい罪人として社会から見捨てられていた人々に神の道を語り伝え、絶望的な状況にある人々を数多く救ってこられました。しかし、この世には正しいことと分かっていてもそれを排除する力が働くものです。主イエスが神の愛で偉大な働きをし、それによって大衆の心が彼のもとに吸いよせられていくに従って、宗教家や権力者たちは嫉妬心に駆られてイエスさまを目障りな存在と見るようになりました。主イエスもまたそれを感じとり、弟子たちに向かって「自分は過越祭に入る前に十字架の刑に引き渡される」と予告されました。その頃宗教家や権力者たちはひそかに主イエスを殺す計画を練り始めました。イエスを殺害するXデーをいつにするかと言うことについても色々と考えました。そして人出の多い過越祭の期間は避けようと言う点で一致しました。祭りの前にするか、後にするかと協議していたその時、主イエスの弟子の一人でイスカリオテのユダが入ってきて、「あの男を引き渡せば、いくらくれますか。」と申し出ました。この瞬間主イエスは銀貨30枚と言う値で売られることになりました。これはユダヤ人社会における奴隷と同じ値段です(出エジプト記21:32)。
主イエスを裏切ったイスカリオテのユダについてですが、他の弟子たちは皆北のガリラヤ地方の人々ですが、彼だけはユダヤ地方にあるカリオテの人です。イスカリオテとは「カリオテ出身」という意味です。すなわち主イエスの弟子の中で唯一 都会人です。経済活動の盛んなユダヤ地方に生まれ育ったからでしょうか、主イエスは御自分の共同体の財産管理を彼にお委ねになりました。しかし彼にはルーズな一面もあり、皆から預かった公金を横領して私腹を肥やしていたとも書かれています。ヨハネ12:6にそれを裏付ける1節があります。
彼がいつ主イエス・キリストに出会い、どのような切っ掛けでいつ頃から主イエスの弟子仲間に加えられたのか分かりませんが、気になることがあります。それはイエスさまに対する呼びかけです。他の弟子たちは時に「先生」と呼ぶことはありますが、ここと言う時は必ず「主よ」と呼びかけています。11人の弟子たちはイエスさまを神の御子と信じていたからです。しかしユダだけはどの福音書を読んでも徹底して「先生」と呼びかけています。「主」と呼んではいません。ユダは主イエスを律法の教師、ラビとして評価しましたが、天の父なる神の独り子「メシヤ、キリスト」と認めるにはついに至らなかったのです。彼にとってイエスさまは聖書の字句を学ぶべき立派な教師ではあっても、信じ従うべき主なるキリストではありませんでした。彼は人生を生き抜く上で何かを学び取ろうとしたのかも知れませんが、自分の内にある罪の性質と真剣に向き合い、主イエスの御前にその罪を徹底的に砕いていただくという回心の機会を持とうとしなかったのです。教師であるイエスに期待することはあっても主なる神の導きに従うという謙った心を持とうとしなかったのです。彼は主の弟子であり、一人の僕であることを自覚して謙る代わりに、イエスご自身を自己の欲望の奴隷としてしまったのです。そして遂に彼は彼にとって愛する先生であるはずのイエスさまを銀貨30枚で裏切ってしまいました。
世界の歴史は裏切りの歴史だという人がいます。ジュリアス・シーザーは永年の友人の裏切りによって命を奪われますが、その最期の言葉は「ブルータス、お前もか」というものでした。お前もかと言うことは、他にも沢山の人が彼を裏切ったのです。人は自分の立場を守るためなら、悪魔に良心さえ売るものです。いいえ、ユダのように神をも売り渡すことが出来るのです。このように悔い改めることをしない傲慢な心が天使の仮面を被り、神に敵対して人々の平和に対する信頼を裏切ります。世界を震撼させる悪魔の奴隷となってこの地球上から平和の道を断ち切ろうという恐ろしいプログラムを考えつくのです。
仙川キリスト教会の愛する兄弟姉妹、あなたは毎週この教会に来て礼拝を献げておられます。そのあなたに敢えて問いかけたいのです。あなたにとってイエスさまはどのようなお方でしょうか。偉大な律法の教師でしょうか。今風の言い方をするなら、イエスさまはあなたの生活の幾分かを助けてくれる重宝な「パシリ」なのでしょうか。もしあなたにとってイエスさまとの関係がその程度のものであるなら、あなたはきっと切羽詰まると、イエスさまを奴隷のように捨てたくなることでしょう。2千年前にユダヤの人々がイエスさまを十字架につけたように、あなたもイエスさまを十字架につけた一人となるのです。
しかし主イエスが弟子に裏切られてもなお十字架に死んで下さったのは、私たちが受けるべき神の審きをその身に代わって受けるためです。敵をも愛する主イエスの死こそ、罪人を救う神のご計画だったのです。神ご自身私たちに対して和解の手を伸べて平和の道を教えて下さいました。
私たちも今私たちの手に握りしめている銀貨30枚、悪魔に神を売り渡すという傲慢を捨てましょう。イエスさまをただ聖書研究の対象としての先生ではなく、神の御子、主なるキリストとして信じ受け入れ、この方に生涯従う者となって下さい。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
この世は不正と裏切りに満ちています。イエスさまを奴隷のように売り渡す心はイスカリオテのユダだけではありません。私たちも自分の立場や欲望を満足させるためには家族や親友だけでなく、あなたさえ邪魔に思えて捨てるのです。このようなおぞましい自己中心の私たちこそイエスさまを十字架に売り渡した罪人の一人であることを認めずにいられません。あなたはこのような者を救うために、敢えて御自分を裏切る者の手に身を委ね、十字架の上に永遠のご計画である救いの御業を成就して下さいました。言い知れぬ愛と豊かな憐れみによって私たちは救われました。私たちはこのままでは審きの日、永遠の滅びを免れません。主よ、今私たちは自分自身の内にある罪の性質を認めて悔い改めます。今日からあなたこそ唯一の救主であることを信じますから、あなたの僕として従うことをお赦し下さい。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します。
アーメン。