【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年8月11日

「祝福された浪費」
マタイによる福音書26章章6−13節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 主イエスは弟子たちと共に、シモンの家に招かれて食事の席についておられました。するとそこへ「一人の女」が入ってきて、持ってきた高価な香油を主の頭に注ぎかけました。売れば1年分の賃金に相当する値打ちものです。当然のことながら家は高価な香油の香りで一杯になりました。弟子たちにはこの女性の行動は理解しがたいものでした。巷には食うや食わずの人で溢れています。ホームレスの人も数えきれないほどです。とても尋常とは思えません。鼻持ちならない金持ちの道楽と見えました。だから大いに憤慨し、弟子の一人が、「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と声を荒げました。

 しかし主は、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」と言われました。

 聖霊は今日私たちにとても大切なことを語り聴かせようとしておられます。それは何でしょう。主イエス・キリストの福音と、この女性の愛の業が世の終わりまで並行して記念として語り継がれると言うことです。つまり、主イエス・キリストの十字架の出来事は、十字架を先取りしてナルドの香油をもって主に仕えた女性の信仰を抜きにしては語り尽くせないと言うことです。

 ツィンツェンドルフと言う伝道者は若い日に十字架に上げられたイエス・キリストの絵とその下に書かれた「わたしはあなたのためにこれをした。あなたはわたしのために何をするのか。」という一行の文字に感じ入り、一切を捨てて自分の生涯を主に献げる道を選びました。教会に来る人の数が少ないから何もできないのではありません。神が私たちのために何をして下さったかが見えないことの方が教会の将来を危うくします。世の人に無駄と見える献金と奉仕、礼拝出席、祈祷会への出席こそは真に祝福の道であることを確信し、優先させようではないですか。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2002年8月11日

「祝福された浪費」
マタイによる福音書26章章6−13節
メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 陰謀と裏切りの包囲網が自分に対して狭められていることを知りながら、主イエスは弟子たちと共にベタニヤの村で、重い皮膚病を患っているシモンの家に招かれて食事の席についておられました。するとそこへ「一人の女」が入ってきて、持ってきた壺に入っている高価な香油を主の頭に注ぎかけました。食事の仕方は国によって特徴があります。テーブルの前に椅子を置き、座って食べる習慣の国、日本人を含めた東洋では床の上に座卓を置き、その前で正座したり、胡座を組んだり、片膝を立てて食べる習慣の国など様々です。ユダヤ式の食事は円形か楕円形の食卓に向かって放射線状に寝そべって頂くそうです。これなら成る程食事の邪魔にならないように後ろからそっと頭や足(ヨハネ12:3)に香油を塗ることができます。ヨハネによるとこの香油は1リトラ以上は入っていたと言います。メートル法で言えば約326ccです。しかもこの香油はヒマラヤ原産の植物ナルド(サンスクリット語「香りを放つ」の意味)から作られたもので、まさに超高級ブランド品です。香油についてもっと詳しく知りたい人は、アロマセラピーの勉強をなさっている鈴木美子姉に聴いて下さい。当然のことながら家は高価な香油の香りで一杯になりました(ヨハネ12:3)。弟子の中には経済に強い人がいまして、売れば300デナリオンにもなるのにと言います。1リトラで1年分の賃金に相当する値打ちものです。弟子たちにはこの女性の行動は理解しがたいものでした。巷には食うや食わずの人で溢れています。ホームレスの人も数えきれないほどです。それなのにこの女性はこれ見よがしに極めて高価な香油を主の頭に注いでいます。とても尋常とは思えません。鼻持ちならない金持ちの道楽と見えました。だから大いに憤慨しました。ついに黙っていられなくなった弟子の一人が、「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と声を荒げました。

 

 富里バプテスト教会に蔦宗泰孝さん・照子さんという素敵な信仰のご夫婦がいます。彼らとは新潟以来のお付き合いで、かれこれ14,5年になります。経済的には豊かな部類に入る彼らですが、いつもイエスさまのこと、教会のこと、日本バプテスト連盟全体のことを祈るスケールの大きな信仰の友です。最近彼らから聴いた話ですが、ある教会の信徒が礼拝だったか、修養会だったかで語られたメッセ−ジに感動し、また御霊に揺り動かされて数億円もの献金を自分が通う教会の牧師に申し出られたと言うことです。教会の牧師はこともなげに「承知しました」と、その小切手か現金か知りませんが、教会の会計に右から左に預けたと言うことです。このような話を世の人が聞いたら、多分それを色々に評価したことでしょう。彼の寄付行為は税金対策ではないかとか、一種の売名行為ではないかとか。しかし教会の人々は彼の献金を純粋な信仰から出たものと、素朴に受けとめています。

 そんな話をしながら蔦宗さんは別の角度から感動して言います。「現在日本バプテスト連盟はここ数年協力伝道献金の目標を2億円と定めているが、なかなか満たされない。ところが彼の教会の某信徒は日本バプテスト連盟の協力伝道献金を超える額をポンと献げた。この落差は何だろうか」と。この事について話し合っている内に気付かされたことは、問題は献金の多寡ではなく、私たちがどれだけ主のみ言葉に感動し、どれだけ主御自身の恵み深さに感謝しているであろうかと言うことです。300デナリオンにも相当する香油の献げものについて周囲は議論百出しました。私たちもともすればその議論に引き込まれそうになります。しかし著者マタイは静かに主御自身のみ言葉を私たちに伝えます。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう。」と。

 聖霊は今日私たちにとても大切なことを語り聴かせようとしておられます。それは何でしょう。主イエス・キリストの福音と、この女性の愛の業が世の終わりまで並行して記念として語り継がれると言うことです。つまり、主イエス・キリストの十字架の出来事は、その十字架を先取りしてナルドの香油をもって主に仕えた女性の信仰を抜きにしては語り尽くせないと言うことです。

 ナルドの香油をもって主イエスに仕えた女性と主の弟子たち、数億円を献げた信徒と私たち日本バプテスト連盟の間に違いがあるとすればそれは何でしょう。十字架と復活の主イエス・キリストに対する感動と感謝の有無です。この女性の目にはイエスさまがこれからどこに行って何を為されるのかが見えていたのです。あの信徒もまたイエスさまが彼のために何をして下さったかが見えたのです。即ち彼らに共通していることは、手にある物を無くしても主イエス・キリストと共に永遠にいることがどれほど幸いであるかを気付かされてその道を選んだと言うことです。使徒パウロはコリント人への第二の手紙で、「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(9:15)と神への感謝を感動をもって書き送っています。

 ツィンツェンドルフと言う伝道者は若い日に十字架に上げられたイエス・キリストの絵とその下に書かれた「わたしはあなたのためにこれをした。あなたはわたしのために何をするのか。」という一行の文字に感じ入り、一切を捨てて自分の生涯を主に献げる道を選びました。

 日本バプテスト連盟として、またその一教会として世界平和のために。差別をなくすために。貧しい人やホームレスの人々に家と仕事が与えられるためにと一生懸命奉仕するのも大切です。しかし、その奉仕の基本である十字架の主の前に立たされて、私たちは先ず何を捨てて何を選び取るのか問われているのではないでしょうか。主イエス・キリストの十字架が本当に見えない間は、300デナリは愚か1デナリを献げるのも惜しくなります。献げるとはお金だけの問題ではありません。主から賜った24時間のうちの1時間が自分のために惜しくなることがあります。あれこれもっともらしい言い訳をしながら、礼拝と祈祷会を疎かにする人を主イエス・キリストはお喜びになりません。自分を楽しませることのためにはどこにでも行くのに、主を求めている人の所に行くことは余り気が進まない信徒を主は悲しんでおられます。

 教会に来る人の数が少ないから何もできないのではありません。神が私たちのために何をして下さったかが見えないことの方が教会の将来を危うくします。人々からそのお金を、その時間を、その身体をこの世のため、もっと貧しい人のために用いることが先決だと言われようとも、今日与えられたみ言葉のように私たちキリストの弟子にとって、時も宝もこの身も魂も十字架のキリストに先ず献げることが貧しい人、困っている人に仕える基本の道であることを確認しましょう。世の人に浪費と見える礼拝出席、祈祷会への出席、奉仕、献金こそは真に祝福の道であることを確信し、優先させようではないですか。

祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

私たちはこの2日間「栄光は十字架の向こうに」という主題の下にみ言葉を学びました。この世はあなたのためにも用いようとする時間やお金や身体をあたかも無駄使いであるかのように非難します。ともすれば私たち自身その声が正しいかのように錯覚して、教会生活を二の次、三の次にしてしまいそうになりました。しかし主は弟子たちの冷たい視線を背に受けながら、それでもナルドの香油を惜しまず主のために献げた一人の信仰者を私たちに示し、先ず主のためにと言う決心に些かの間違いも無いという確信をお与え下さいました。言い尽くし得ない賜物の故にあなたに感謝します。

私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげ致します。アーメン。


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