【主日礼拝メッセ−ジ要約】                       2002年9月8日

共に行く神

出エジプト記33章12−17節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 孤独は山の中ではなく、都会の中にあると言った人がいますが、その通りだと思います。わたしは大阪、神戸という比較的大都市と言われている町で結構永く生活してきました。それでも東京都内の雑踏は大阪、神戸の比ではありません。恥ずかしいことですが、わたしは今もって都内の電車の混雑ぶりと、特に新宿や渋谷の駅周辺は苦手です。しかし東京だけでなく、大阪・神戸に共通していることは、道行く人がどうしてそんなに急ぐのかと思うほどみなせかせかしている点です。のんびり隣の人に声をかけることの出来る雰囲気ではありません。街の風景は賑やかな音で溢れていますし、目をひくような彩りで溢れていますが、でもそれは外見のことであって、人々の内面は皆孤独なのです。みな自分の世界に閉じこもっています。このままで良いはずはないのです。人生を孤独に歩いてはならないのです。心通う友人が必要です。何でも語り合える夫婦の関係でなければなりません。子どもが家に帰ってきたとき、正面から顔を見て「お帰りなさい」と言ってあげる親が求められているのです。

 どうしたらそんな生活を取り戻すことが出来るのでしょうか。あなたの生活に神を有つことです。あなたがもし切なる思いでその希望を神に祈るなら、神は必ず、「わたし自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と語りかけて下さるはずです。また主イエス・キリストも言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と(マタイ11:28)。私たちの人生の目標は何でしょうか。お金持ちになることでしょうか。偉大な実業家になることでしょうか。有名人になることでしょうか。学問に情熱を注いで立派な教育者になることでしょうか。素晴らしいことです。でも、あなたの本当の目標はあなたの魂に真の平安、安息が与えられることです。あなたのために用意されている霊的な約束の地、カナンはどこでしょう。天の父なる神の独り子である主イエス・キリストのふところです。十字架の上からあなたのためにとりなして下さった主イエス・キリストによって、あなたの罪は赦され、これからの生涯を確かに導いて下さいます。この方だけがあなたの人生に確かな望みと平安を約束して下さいます。どうか今この方に従う決心をしてください。

 

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【主日礼拝メッセ−ジ】                          2002年9月8日

共に行く神

出エジプト記33章12−17節

メッセージ:高橋淑郎牧師

 

 昔イスラエルにモーセという偉大な指導者がいました。しかしその彼がシナイの山で神から十誡を受けている留守中に、民は神の戒めに背き、金の子牛を造ってそれを神として崇めながら邪な楽しみに耽っていました。十誡の第1から第4まで「神は唯一である。あなたがたは天と地の造り主をおいて、偶像の神に平伏してはならない」と戒められているのです。勿論彼らはまだそれを手にしていません。けれども彼らはエジプトにいたときも、そこから脱出できたときも、そしてこのシナイの荒れ野に足を一歩踏み入れるまでにも、有り余るほど体験的に、この方こそ唯一の神であることを学んだはずです。だから神はこの頑なな心のイスラエルの民に怒りを表し、「わたしはあなたの間にあって上ることはしない。」(3節)」と言われたのです。モーセは困惑しましたが、それでも民を代表して民のために執り成しの祈りを献げました。

 後世の詩人はこの時の様子を次のように歌っています。「彼らはホレブで子牛の像を造り  鋳た像に向かってひれ伏した。彼らは自分たちの栄光を  草をはむ牛の像と取り替えた。彼らは自分たちを救ってくださる神を忘れた。エジプトで大いなる御業を行い ハムの地で驚くべき御業を 葦の海で恐るべき御業を成し遂げられた方を忘れた。主は彼らを滅ぼすと言われたが 主に選ばれたモーセは破れを担って御前に立ち 彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」と(詩編106:19−23)。

 今はあまり見られなくなった光景ですが、昔私たちが子どもの頃母親は家族が寝静まった夜の間に、衣類の破れを繕ってくれたものです。破れを繕うためには何か別のあて布が必要です。モーセはまるで母親のように神と民の関係の破れを担い、どうすればそれを繕えるのかと苦しんでいます。これが今日の聖書テキストです。もし、ここで神がイスラエルの民との同行をやめてしまわれたら、これから先、イスラエルは自力でこの荒れ野を進んで行かなければなりません。未知の荒れ野を行くことは、即ち死を意味します。イスラエルの民は乳と密の流れる土地、カナンに行き着く前に、全員この荒れ野に屍の山を築くことになるのは必定です。モーセは祈りました。必死で祈りました。今日は読みませんでしたが、32:32をご覧ください。モーセは「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と祈りました。彼は主の憐れみにすがって、「彼らの罪をお赦しくださるのであれば」と祈りかけますが、そこで絶句しました。民がこれほど恐ろしい罪を犯したのに、神がこれほど怒りを露わにしておられるのに、今更赦していただけると思うこと自体恐れ多いと。そこで口をついて出た祈りの言葉は、ああ、何と言うことでしょう。民が救われるためであれば、自分は地獄に陥とされても良いと祈ったのです。同胞に対しては彼らの罪を厳しく咎めながらも一方神に対してはそれを自らの責任とし、その破れ口に立って、「わたしと言う端切れをあててわたしの上に針と糸を通して、主よ、彼らをもう一度あなたと結び合わせてください」と祈るのでした。更にモーセは祈りを続けて、「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」と神の同行を求めました。神はモーセの熱心な執り成しの祈りに耳を傾けて下さいました。そして「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」と約束して下さいました。

 私たちは今日、ここから二つのメッセ−ジを聴き取らなければなりません。一つは祈りの姿勢です。キリストにある者は勿論自分のために祈って良いのです。今ほど自分のために祈りを必要としている時代はありません。政治・経済のこと、教育や子育てのこと、家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと、そして健康のことなど、祈る材料は山ほどあります。そのような祈りを通して歩むべき道、問題の解決、罪の赦しを与えられるのです。

 しかしキリスト者が祈るべきもう一つの課題があります。執り成しです。罪のために滅び行かんとしている親しい人々を初め、まだ見ぬ地域社会、戦争と言う愚かな選択をしようとしている国家や世界のために、その破れ口に立って執り成すことが求められています。モーセは「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。 もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と祈りました。同じ祈りが新約聖書の中からも聞こえてきます。使徒パウロもまた「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:3)と祈りました。これらの祈りは主イエス・キリストの祈りによって完成するのです。主イエスこそ、十字架の上で「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈って下さいました。モーセもパウロも同胞ユダヤ人のために執り成しました。しかし主イエス・キリストの十字架上での祈りはは全世界の為の執り成しです。この十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見るとき、私たちもモーセやパウロと共に、この世の破れを担う執り成しの祈りを献げることができるのです。

 

 今日私たちに告げられているもう一つのメッセ−ジ、それは神がいつも私たちの人生を導き、共に歩んで下さるというメッセ−ジです。モーセは「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」と祈りました。すると、神は「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう。」と恵みに満ちた約束を与えて下さいます。

 「荒れ野」と言う語は、聖書の中に「砂漠」、「不毛の地」、「人なき地」、「獣の吠える荒れ地」、「乾ききった地」など、いろいろに言い表されています。確かにモーセの時代も今も人は荒れ野の人生です。モーセの時代は文字通りの荒れ野を旅する40年でした。しかし現代人は精神的な荒れ野を目的も知らず彷徨(さまよ)っているのです。道があるような無いような実に不安定な人生を独り彷徨うとは何と心細いことでしょう。あなたは毎日仕事に精を出しています。しかし何のために働くのでしょうか。年頃だからと言う世間の常識に流されて結婚したとします。ところが何か歯車が噛み合わなくなると離婚と言う選択肢を考えます。では人はなぜ結婚するのでしょうか。病を得ます。それが重ければ重いほどいつ治るのか、このまま死を待つのか実に不安でたまりません。つまり人はどのような状況にあっても究極的には孤独なのです。仕事が楽しかろうが詰まらなかろうが、いつかはその仕事も他人の手に取り上げられるときが来ます。友達が多かろうが少なかろうが人は独りで生きて行かなければならなりません。夫婦仲が良くても悪くても人はいつか独りで死んで行かなければならないのです。

 孤独は山の中ではなく、都会の中にあると言った人がいますが、その通りだと思います。わたしは大阪、神戸という比較的大都市と言われている町で結構永く生活してきました。それでも東京都内の雑踏は大阪、神戸の比ではありません。恥ずかしいことですが、わたしは今もって都内の電車の混雑ぶりと、特に新宿や渋谷の駅周辺は苦手です。しかし東京だけでなく、大阪・神戸に共通していることは、道行く人がどうしてそんなに急ぐのかと思うほどみなせかせかしている点です。のんびり隣の人に声をかけることの出来る雰囲気ではありません。街の風景は賑やかな音で溢れていますし、目をひくような彩りで溢れていますが、でもそれは外見のことであって、人々の内面は皆孤独なのです。みな自分の世界に閉じこもっています。このままで良いはずはないのです。人生を孤独に歩いてはならないのです。心通う友人が必要です。何でも語り合える夫婦の関係でなければなりません。子どもが家に帰ってきたとき、正面から顔を見て「お帰りなさい」と言ってあげる親が求められているのです。どうしたらそんな生活を取り戻すことが出来るのでしょうか。あなたの生活に神を有つことです。あなたがもし切なる思いでその希望を神に祈るなら、神は必ず、「わたし自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と語りかけて下さるはずです。また主イエス・キリストも言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と(マタイ11:28)。私たちの人生の目標は何でしょうか。お金持ちになることでしょうか。偉大な実業家になることでしょうか。有名人になることでしょうか。学問に情熱を注いで立派な教育者になることでしょうか。素晴らしいことです。でも、あなたの本当の目標はあなたの魂に真の平安、安息が与えられることです。あなたのために用意されている霊的な約束の地、カナンはどこでしょう。天の父なる神の独り子である主イエス・キリストのふところです。十字架の上からあなたのためにとりなして下さった主イエス・キリストによって、あなたの罪は赦され、これからの生涯を確かに導いて下さいます。この方だけがあなたの人生に確かな望みと平安を約束して下さいます。どうか今この方に従う決心をしてください。祈りましょう。

 

天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。

今日もあなたのみ言葉を感謝します。多くの人はあなたを知りません。生きる目標を知りません。それで色々な物を神さまに仕立てて、それにすがろうとしているのです。しかし、あなただけが唯一の神、真の救い主です。あなたはいつも私たちの人生に伴って下さる導き手です。どうか、わたしの隣人をお救い下さい。人の姿をとってこの世に降り、十字架の上で私たちのさまざまな罪のために贖いの業を成し遂げて下さったイエス・キリストを救主と信じるものとならせて下さい。

私たちの主イエス・キリストの御名によってこの祈りをおささげ致します。アーメン。


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