【主日礼拝−メッセ−ジ要約】 2002年10月27日
マタイによる福音書26章47-56節
聖書に、「友の振りをする友もあり 兄弟よりも愛し、親密になる人もある。」という1節があります(箴言18:24)。友を選べということです。私たちの周りにはどのような友がいるでしょうか。
イスカリオテのユダは「(主イェスの)友の振りをする(偽りの)友」でした。主の晩餐式の直前に主イェスから「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13:27)と言われた彼は、今また主イェスの首を抱いて偽りの挨拶をしたときも、「友よ、しようとしていることをするがよい」と同じ言葉を聞くことになったのです。この瞬間、主イェスご自身の決断とユダの決断がぶつかり合うことになりました。「友よ、しようとしていることをするがよい」と言うみ言葉によってユダは今二者択一の道を前にしていたのです。主から遠ざかる道か、主を裏切った後でも、「主よ、あなたを裏切ることになってしまったわたしをお赦し下さい」と、十字架を仰ぎ見て告白する悔い改めの道です。56節を見ると、外の弟子たちも一度は「主を見捨てて逃げてしまった」のです。12弟子全員が主を裏切った共犯なのですから、ユダにもまだチャンスが残されていたのです。主イエスは決して彼を見捨ててはおられなかったのです。友の振りをするユダに真の友、真の弟子の道を回復する機会をこの瞬間でさえ彼の前に開いて下さっていたのです。考えてみると、12弟子中ユダほど主に近くいた人はいなかったでしょう。主イェスに接吻できるほど近づくことが赦されたのです。しかしユダは主に最も接近していながら、彼は最も主から遠い者として退けられる結果を自ら招いてしまったのです。「友よ」と呼びかけられたのに、主の弟子に加えられたのに、神の子としての権利を目の前にしていたのに、彼は自ら「亡び」を刈り取ってしまいました。
愛する皆さん、あなたも人からの裏切りに遭ったことはないでしょうか。今もその人の顔を思い出すと、憎しみがこみ上げてくるかも知れません。しかし、それでよいのでしょうか。「友よ、しようとしていることをするがよい」と言う主のみ言葉を思い出しましょう。主は、先ず私たちに「友よ」と呼びかけて下さいます。真の友である赦しの主に出会うことで、私たちもまた裏切る友をも赦す力が与えられるのです。
マタイによる福音書26章47-56節
ゲッセマネの園で主イエス・キリストは私たちのために寝る間も惜しんで祈って下さいました。そして、十字架という苦い杯を受ける覚悟を示されました。眠りから覚めやらぬ弟子たちを促し、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」と言われます。
時は過越祭です。日本の暦で言えば、春分の日に近いころですから、曇ってさえいなければ満月が煌々と照りさえていたことでしょう。主を裏切った弟子の一人イスカリオテのユダもゲッセマネの園は良く知っていました(ヨハネ18:2)。しかし彼に従う者にとってそこは道不案内であったかも知れません。ましてや主のお顔を知っている人は何人いたでしょう。それで彼は予め、他の弟子たちと区別が付きやすいように、自分が接吻する者がその方だから間違わないで逮捕するようにと打ち合わせておいたのです。ユダは打ち合わせ通りに主イェスに近寄って、「先生こんばんは」と言いながら、その首に接吻しました。言葉にしても接吻にしてもこの国ではごく普通の挨拶です。しかし、時が時だけに読む私たちにはかえって不自然に思えてなりません。裏切ろうとする相手に良くもこんなことができたものです。
ここにユダならではの緻密な計算があります。この仕草を目印にすることで、ユダの同行者は確かに間違いなく主イェスを逮捕できます。それだけではありません。この如何にも親しげな挨拶は、外の弟子仲間の目をごまかす上でも十分効果があります。何の妨げもなく、誰から警戒されることもなく主に近づくことが出来るのです。仲間は当初主の晩餐式が始まる直前に席を外していたユダが何かの用事をしてから、一寸遅れてやってきたのだぐらいに思ったことでしょう。
しかし、これほど計算されたユダならではの演技も、主イェスの目をごまかすことは出来ません。ルカ22:48によれば、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われたことになっていますが、マタイでは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われたと書いています。解釈すればルカのような言い方になるのでしょうが、ここは主イェスの直弟子であったマタイの記事に従うことにしましょう。いずれにしてもこのみ言葉を聴いた瞬間、ユダの心の中は早鐘のようになり響いたことでしょう。
しかしそれも一瞬のことで、ユダの同行者はたちまち主に手をかけて捕らえました。主はこの時為す術もなく空しく、また無力な一殉教者として死を選んだのではありません。主イェスは御自身の一声で12軍団以上もの天の軍勢を呼び起こす権威をお持ちなのです。これを当時ユダヤ地方に進駐していたローマ軍の規模に譬えて言えば、その1軍団の単位は6,000人であったと言われていますから、少なくとも72,000もの天の軍勢を呼び起こすことができるのです。しかし主はそのようなことをなさいません。主イェスの御生涯は常に聖書に忠実な歩みでしたが、今こそ更に聖書に忠実でなければならないと言われるのです。十字架以外に私たち罪人の救いに至る道がないからです。神は常に悪と真っ向から戦う神ですが、その戦術はその身を十字架につけることで勝利を握るというものです。聖書を実現させることが主イェスにとって永遠の勝利につながる戦い方なのです。
こうして主イェスは無抵抗に縄を受けられました。すると、主イエスの弟子たちは皆この場から主イェスを見捨てて逃げ去ってしまいました。「わたしはどんなことがあってもあなたを離れません」と言ったペトロはどこへ行ってしまったのでしょう。外の弟子たちはどこへ行ってしまったのでしょう。主を裏切ったのはユダだけではなかったのです。
このことから、今日の主題となっている「友よ」について考えてみましょう。昔から「遠い親戚より、近くの他人」という諺がありますが、聖書にも似たような諺が見られます。箴言27:10に、「あなたの友人、父の友人を捨てるな。災いの日に、あなたの兄弟の家には行くな。近い隣人は遠い兄弟にまさる」とあります。しかし箴言18:24に、「友の振りをする友もあり 兄弟よりも愛し、親密になる人もある。」という1節があります。友を選べと言うことです。
昔、イスラエルの王となったダビデの家臣にヨアブという人がいました。彼は非常に優れた武人で、これまで戦いに出て敗北を喫したことは一度もありません。ダビデもまた彼を信頼して最高司令官に任命しました。しかし人とは悲しいもので、彼は重用されるに従い、次第に高慢になり、ダビデの信頼を良いことに、常に独断専行のきらいがありました。ダビデがサウル王の死後も長く続いていた内乱に終止符を打ち、折角平和の内に国を統一しようとしていた矢先に、ヨアブは私の恨みを晴らすために、ダビデに断りもなく一方の和平の立て役者であるアブネルを、イスカリオテのユダと同じように言葉巧みに挨拶をする振りをして剣をもって殺してしまいました。アブネルはヨアブの身内だったのです(サムエル記下3:27)。
その上手を行くのがイスカリオテのユダです。彼こそまことに「(主イェスの)友の振りをする(偽りの)友」でした。主の晩餐式の直前に「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」(ヨハネ13:27)と主イェスから言われたユダは、直ちに主を売り渡す具体的な行動に出ました。そして、今主イェスの首を抱いて偽りの挨拶をしたときも、「友よ、しようとしていることをするがよい」と同じ言葉を聞くことになったのです。この瞬間、主イェスの意思とユダの意思、主イェスご自身の決断とユダの決断がぶつかり合うことになりました。
それにしても、主がユダに向かって、「友よ」と呼びかけた言葉はただのお世辞でもなければ、皮肉でもありません。それが証拠に数時間前、主イエス・キリストは御自分の最後の時の近いことを思い、愛する弟子たちにこう言われたのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:13〜15)と。
「友よ、しようとしていることをするがよい」と言うみ言葉によって、ユダは今まさに二者択一の道を前にしていたのです。主を裏切り、主から遠ざかる道か、主を裏切った後でも、「主よ、あなたを裏切ることになってしまったわたしをお赦し下さい」と、十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見て告白する悔い改めの道です。56節を見ると、外の弟子たちも一度は「主を見捨てて逃げてしまった」のです。12弟子全員が主を裏切った共犯なのですから、ユダにもまだチャンスが残されていたのです。主イエスは決して彼を見捨ててはおられなかったのです。友の振りをするユダに真の友、真の弟子の道を回復する機会をこの瞬間でさえ彼の前に開いて下さっていたのです。
考えてみると、12弟子の中でユダほど主ご自身に接近できた人はいなかったと言えるかも知れません。主イェスの首を抱いて接吻できるほど近づくことが赦されたのです。しかし、それは「友であることの振り」でしかなかったのです。悲しいことですが、ユダは誰よりも主に接近できていながら、彼は最も主から遠い者として退けられる結果を自ら招いてしまったのです。「友よ」と呼びかけられたのに、主の弟子に加えられたのに、神の子としての権利を目の前にしていたのに、悲しいことですが、彼は自ら「亡び」を刈り取ってしまいました。
愛する皆さん、あなたも一度や二度、友とばかり思っていた人からの裏切りに遭ったことはないでしょうか。きっと悔し涙で枕をぬらす日も少なくなかったことでしょう。あなたはもしかしたら今もその人の名前と顔を思い出すと、憎しみがこみ上げてくるかも知れません。決して赦せないと言う固い決意の思い出が甦ってくるかも知れません。しかし、それでよいのでしょうか。今こそ私たちは主がイスカリオテのユダに言われた「友よ、しようとしていることをするがよい」と言うみ言葉を思い出しましょう。このみ言葉の前に立たされたとき、私たちは人に裏切られたかわいそうな自分と、主イェスの友らしい振りをして、実はこの主イェスを日々裏切っている卑怯な自分が重なって見えてこないでしょうか。今、静かに主イェスが教えて下さった主の祈りの1節を思い出して言葉に出してみましょう。
「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」
教会とは友と出会うことの出きる場であります。いつも「友よ」と呼びかけて下さる方ご自身が十字架によってあなたと、そしてあなたとその友との間に和解の道を備えて下さっているのです。 祈りましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名を崇めます。
今日もみ言葉とメッセ−ジを感謝します。箴言に「友の振りをする友もあり」というみ言葉にもありますように、本当に友と呼べる人を私たちの周囲に見いだすことは困難かも知れません。いえ、私たち自身隣人から見て果たして友と呼ばれるに値しない者であるかも知れません。しかし、主イエス・キリストは御自分を裏切る者にさえ、「友よ」と呼びかけて下さいます。そして十字架の上から全ての人に、「友よ、しようとしていることをするがよい」と呼びかけて、二つの道を示されます。一方はあくまで自己中心の生き方に拘る道を進むこともできます。もう一方は、「罪人のわたしをお赦し下さい。これからはあなたをわたしの主、わたしの導き手と従って参ります」という悔い改めの道です。私たちは今勿論、あなたを主と信じ従う道を選びたいと願っています。どうか弱い私たちをお助け下さい。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお願い致します。
アーメン